本

『じぶん・この不思議な存在』

ホンとの本

『じぶん・この不思議な存在』
鷲田清一
講談社現代新書1315
\700+
1996.7.

 新たな角度から物事について見つめ、掘り下げて理解するためには、それなりの心準備というものが必要になる。従来の視点からでは見えないがために、新しい視座へと移動しなければならないからだ。その辺りのコツを知っている著者の本を読むことは心地よい。まずは風景がよく見えるビュースポットまで連れて行ってくれるからだ。
 鷲田清一という人は、それが巧い人の一人であろうと思う。いきなりその説明を聞いてもそんなものは見えないぞと思うが、ある場所まで連れて行ってもらってからその説明を受けると、なるほどと思える、そんなガイドになってくれるのだ。
 プロローグで、講義題目「自己と他者」のレポートの中で、文句なしに最高点をつけたものがあったというところから本書は始まる。講義には最初に一度しか出席していなかったという申告に始まるそれは、ボーイフレンドと別れたことについて書いた女子学生の答案であった。実にこの答案は、大学教授として一年をかけて学生に伝えようとしていた一つのことを、すっかり体験していたことを表していたというのだ。もちろん、その理由はプロローグで明かす訳にはゆかない。その謎を解くかのように、本書を辿れと指示が飛ぶ。私も、おぼろげにその意味を掴もうとはするが、これだけのヒントでは明確にこれであるとまでは言えない。一緒に謎解きに参加することとして、頁をめくっていくことになるわけである。
 わたしとは誰か。自分探しがひとつのブームになっていたような時期である。それは私の学生時代と同じ時期ではないが、その後の世相をも含み、私もそうした空気を感じていた。すでに信仰を与えられていたからかもしれないが、自分探しの風潮には賛同できなかった。しかしながら、若者を中心として、そのような自分への問いというものについて、理解できない訳ではなかった。そのことからも、本書が著されてから20年以上を経て初めて読んだ読者としても、興味をもって挑むことができたのだと思う。
 どこかにほんとうの自分というものがあるのだろうか。しかし少しばかり視点を変えれば、それは他人という存在を介した上での自己認識というものではないのかという疑惑に辿り着く。相手ではない自分。つまり、自己の内実に関心をもつのはよいかもしれないが、自己の内部にのみそれを求め、問うというのであっては実りはない。しかしそれをあっさりと抽象的に述べようなどとはこの著者は考えない。現象を見つめ、ねっとりとその観察から、一定のものは探るのを諦めつつも、何らかの背後にあるものを問いながら近づこうとする。臨床という合い言葉で著者はまた、精神病理を扱う現場の中に意味を見出していくこともしていくので、厳密な論理というよりは、現にそこに見えている事柄を読み解こうとするタイプの思考をしていくと言えよう。心理学的な手法であるかもしれないが、だからこそ取っつきやすいのでもあり、なおかつうまく掴めない印象を与えるのもやむを得まい。
 自分への問いは諦めないで問い続けていくうちに、他者との関係、さらに言えば他者あってこその自分という見出し方に活路を求める。そしてそういえば、と言わんばかりに、身近な現象や体験が同様の背景のもとに説明できることを思い起こしつつ、例を添えていく。
 著者はキリスト教を宣伝するようなことをする人ではないが、要所要所で、聖書の言葉や、聖書にある人間観のようなものを取り入れているように私には見える。小さな言い回しの中にも、聖書の表現からきたものがあるなど、聖書的な思考をその考察の段階の中で必要としていったのかもしれない。その点でも、私は実は読みやすかった。ただ、それで自分というものが認識できるようになっただろうかと言われると、そんなことはない。そればかりか、著者自身、まだ問いの途上に過ぎないということを最後に告白している。自我についての論理的な把握ではなく、現象の分析を重ねるという手法のために、この理論には曖昧さも伴うことであろう。そして、明晰な把握はどこか諦めているかのようにも見える。あれこれと旅してきた割にはまた元の場所に戻ってきたかのようにも自分で言っているが、もちろんそれは最初と全く同じというわけではない。いくつもの観点を経た上で、また最初の風景に戻ったとしても、経てきた経験が、全く最初と同じものではないということを教えてくれる。多くの具体例を伴いつつ言葉を紡いできた著者は、もう一度スタートに戻ったとしても、次からの歩みは先のものとは違うはずだ。そして読者一人ひとりが、自分とは何かということを問うスタートラインに立たされていることに気づくことだろう。哲学をするということの魅力を、一人でも多くの読者が感じるようであればよい、と著者ならずとも、私も言いたいものである。
 感覚的な、身近な体験に基づく表現が、思索に彩りを添える。言葉は易しいにしても、その背後にある著者の思惑や見ている風景を共有するのは、実のところかなりの思考訓練を要するものであろうかと思う。哲学をするとまで強く言わなくても、誰もの心の中に一度は浮かぶ問い、それがこのような自分というものである。案外これを「じぶん」とひらがなで書いたところに、ほんとうの狙いがあるのかもしれない。著者と共に、じぶんへと旅をする者でありたいという気持ちがした。




Takapan
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