本

『日本史集中講義』

ホンとの本

『日本史集中講義』
井沢元彦
詳伝社黄金文庫
\670
2007.6

 三年前に発売された本の文庫版である。
 日本史の専門の学者ではなく、作家である。いや、専門の学者など、何も見えていない、と豪語するのが、著者の主張である。
 副題に「点と点が線になる」とあり、日本の歴史の中にある様々な事件や出来事の背景に、つながるものがある、と説明している。学者たちは、狭い領域だけしか研究しないから、それが分からない、というのである。
 作家としての自信というよりは、これは作家としてのひらめきの世界であるのかもしれない。さらに、本人は事実に従うべきだと言いながらも、自分の立場や主義がまず正しいという前提があるかのように感じることもあった。
 本としては、さすが作家である、面白い。楽しく読ませてもらった。歴史の教科書や通俗的な聞きかじりでは、まるでゴシップ記事を知っている程度のものなのだということが、分かるように綴ってある。かといって、歴史の裏側などといって「いや実は……」式の蘊蓄話で終わろうとする性質のものでもない。日本人たちの根底にあるものを、自分なりの確信から描き、それを貫こうというものである。
 それは、資料まで載せて、歴史学者をあざ笑った、憲法十七条の解釈である。和をもって貴ぶという書き出しの次に、論じ合うこと、つまり話し合いこそが大切である、という文がある、そこを大切にするのである。仏教や天皇のことよりもまず最初に、この話し合いのことが記されているがゆえに、日本人は、話し合いを最も大切にする民族なのだ、話し合いが絶対である考え方をするものなのだ、というのである。
 それはそれで面白いが、はたしてそうなのか、と疑問が起こる。私たちには、国会で行われていることが、話し合いに基づくようには、見えないからである。もとより、この「話し合い」というのは、近代民主主義の議論というものとは、別物であるように著者は考えているらしい。著者も後に指摘するが、次官的運営に基づく、根回しのようなあり方を、「話し合い」の本性であるように、理解されている部分がある。これは、論を貫く中で、すりかえ作用を導く可能性がある。同一の語が、複数の意義で用いられているからである。
 それでも、疑念は起こる。その民族がそうであるという当たり前のことが、条文の冒頭にくるのだろうか、と。私たちの現実が理想に反するがゆえに、その理想をまず掲げる、ということを、私たちはしばしばやらないだろうか。たとえば「盗んではならない」と記してあるのは、盗みが現に横行しているからである。「すべての人は平等であると考えよう」とあれば、現実に平等ではないからである。
 日本人は、話し合いが苦手だからこそ、最初にそれを理想として掲げた、というのが、自然な理解ではないだろうか。
 著者は、キリスト教をかなり批判している。旧約聖書でエリコを破壊し、パレスチナの原住民を皆殺しにした、と強く主張する。だが、現実に皆殺しなど、していない。聖書は、すべてを殺したと記述するが、それは信仰的な意味において読むように書かれているのであって、私たちの中の元来の罪をきよめる意味において読むときに、必ずそれは皆殺しでなければならないからである。しかし、これを著者はまともに受けてしまった。異民族が出会うとき、逃げるか殺されるかしかない、と言いたいために、聖書の記述をそのまま信じてしまった。ある意味で、よく信じる方であるのかもしれない。
 宗教についても著作があるようだ。宗教組織に武装が伴うことを、きちんと述べているのは評価できるが、それも時代や背景によるのであって、宗教そのものに武装の性質が内在しているわけではない。著者もそれは分かっている。しかし、あるときには歴史用語は当時のものを使えと言い、またあるときには歴史用語の言い換えを当然と考えているように見受けられるなど、事柄に対する姿勢が首尾一貫しているわけではないように見えることがある。その点では、歴史学者のほうが、私は誠実であると思う。論理的破綻を起こすまいとする学者たちの姿勢は、やはり必要な態度であるものだと考える。
 ともあれ、日本人にとり「和」が最高であり、「話し合い」が絶対的である、という理解については、まだまだ考える余地があるように思われる。




Takapan
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