本

『居酒屋』

ホンとの本

『居酒屋』
ゾラ
古賀照一訳
新潮文庫
\1050+
1970.12.

 ゾラの短編を読んで、表現の生き生きとしていることに目を見張った。どうしてここまでリアルに、スッと心に描けるように綴ることができるのだろう、と驚いたのである。それだったら、いままで敬遠していたゾラの長編に挑戦するのはいまだ、と感じた。それが本書を手に取った動機である。
 ゾラが世に知られた作品だという。それは、悪い意味もある。なんだこれは、こんなものが文学なのか、酷評も受けた。なにせ、そこには庶民の、いや貧民のと言うべきだろうが、飲んだくれで感情丸出しの人間の本性がむき出しになったままの生活が、あからさまにされ、それが延々と続くのだ。
 ジェルヴェーズは、洗濯でなんとか暮らしていける女で、男に棄てられ、子どもを抱え、別の男と結婚する。自分の店をもちたいがためにジェルヴェーズが猛烈に働くが、かつての男がまたその生活に首を出してくる。物事がうまくいかない代表のような、救いのない物語でもある。
 ゾラの筆は、非常にリアルである。それは私が短編で感じたことに間違いがなかったことを示す。いつしかその筆致に吸い込まれていく。いつしかそれが物語であることを忘れてしまい、NHKのルポ番組でも見ているかのような錯覚にすら陥る。あまりにも現実的に、あまりにもそこにあるような描かれ方がなされているからだ。
 天下のパリとはいえ、こうした貧しい人々の悲惨なと呼んでよいような生活が底辺にあって、その上に初めて、華麗な金持ちの生活があったのだ。考えてみればそれは当たり前なのであるが、伝わってくる歴史は王侯貴族のそれであり、金持ちの優雅さの物語ばかりであった。そもそもこんな底辺の人々の暮らしなどが、物語になるはずがなかった。それをゾラは、極めてリアルに描き出した。目の前にその人がいるかのように、実に生き生きと、存在感を以て私たちに提示することができたのだ。その意味からしても、ゾラが一流の作家たりえたのだということを意味していると言えるだろう。
 どこに道徳があるのか。どこに幸福への道があるのか。読者は、その文学性をすらしばし忘れて、人物像と描かれた生活へと眼差しを向けざるをえなくなる。今となれば差別的な訳語も度々出てくるが、これはもしかすると、いずれ改訳で直されるかもしれない。それでも、訳者の力量も大したものである。ゾラの良さが日本人に伝わってきたとすれば、それはとりもなおさず、訳者の力ということになるだろう。
 だが、改めて考える。彼らはどうすればよかったのか。何か選択を間違ったとでも言うのだろうか。社会がどう悪かったのか、そんな雲の上のような世界観は、どこにもない。誰もが自分の半径何メートルかの中で、なんとか生きようともがいている。今日一日が生きて終われたらよいとでも言うかのように、その都度その時を必死で生き延びようとしている。ただそれだけの人生であるようにも見えるが、それをことさらに不幸だなどと叫ぶことも殆どない。また、叫んでも何がどう変わるということはない。
 ジェルヴェーズに娘が産まれる。ナナというこの娘は、物語の終盤では怪しげな女に成長している。この魅力的な娘に命を与えるために、ゾラはこの続編をまた書いている。ずばり、その題は『ナナ』という。これもまた、読書家にとっては評判がいい。パリの暗部を描いた一流の文学がここにあるとすれば、さて、東京の暗部は、どのように描かれて私たちに伝えられているだろうか。日本のゾラがいるのかいないのか、私は知らないが、ちょっと貧乏っぽい物語ですよ、というようなものではなく、実に生々しい人間の生き方を描いてくれる作品は、本当はもっと必要なのではないか、というふうにも思われる。
 存在感のある人間たちを描く、それはやはり作家の才能に基づくのだろうか。ここまで暴力的でどうしようもないような人間たちに、心からの共感をもって、すなわち愛をもって迫れるというところにまで、いまの作家は近寄れないでいるのかもしれない。




Takapan
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