本

『癒しと信仰』

ホンとの本

『癒しと信仰』
近藤勝彦
教文館
\2200+
1997.1.

 哲学を一度学んだ人である。神学大学を務め牧会もしている。広い見識と、人との実践とを経て、病気や死と向き合ってきたことだろう。人生の最大の問題として死を捉え、その死を罪と重ね合わせて理解するという姿勢で、教会での説教や講演会で話したことが、ここにまとめられている。
 病そのものが罪の故というのは無理があることを、福音書のイエスは教えてくれている。しかし肉体的な死は避けられなくとも、復活の希望がある限り、本当に死んでしまうその死は、罪の故であるという見方は可能である。それに対して、救いというものがあるわけで、ここに著者は「治癒的贖罪論」という考え方を提唱している。ただ、その神学的展開を議論しようとするものではなく、ここにあるのはやはり耳で一度聞いて理解できるような流れと内容である。安心して繙いてよいだろうと思う。
 病む人がすでに罪の中で罪に取り込まれ、神に見放されたかのように見下ろす様子を、福音書は描き、イエスはそれを批判した。そして、病人に手を触れると汚れるという律法規定を無視するかのように、手を触れ、手を取って、癒しを以て罪の赦しを宣言した。主は病む人とつながってくださったのだ。
 それは、読者にとり他人だというふうに考えてはならない。それは自分だ。聖書はそもそもこのように読まなければ、全く意味がない。自分は例外だなどという思いに支配されていたら、それはその人の魂の死を意味するかもしれない。それは、罪の赦しを与えられたという構図の中から外れてしまうからだ。
 その救いは「今日」訪れた、とイエスは言い、「今日」実現したのだという。そのような「今日」を生きることが礼拝であり、私たちを神の言葉の成就の中に置いてくださる神を礼拝したいものである。
 著者は、いろいろな説教において、別々のシチュエーションに立ちながら、癒しと救いについて、次第に深まっていく旅の中に私たちを誘う。同じことを何度も繰り返しながら語る方のようで、読むとなると、何度も何度も同じことが繰り返されたり言い換えられたりしていくのを不思議に感じることがあるが、やはりこれは耳で聴く一回きりの説教なのだというふうに捉え直すと、そこがとても伝えたいこと、神について知らせたいことなのだという熱意を強く感じるものである。しかも、その舞台としての教会が、この社会をも癒していくという眼差しをもつ。語りが、次第に深く、また広がっていくのを覚えるのが魅力である。
 よく読んでいくと、様々な神学概念や教義内容が、随所に散りばめられており、少なくとも何らかの形で言及されていることに気づく。永遠の命にしても、もうすでに私たちが参与しているということを明確に伝え、私たちのうつむきがちな顔を、天に上げてくれるのである。しかしその先には死が待っている。それでも、私たちは礼拝の生活をすることができ。神を礼拝することで、いまここですでに永遠の命につながっているのである。  終わりの講演では、生命科学や生命倫理の問題と向き合っている。出版から20年も経ってから私は手にとったので、その見解は社会状況とに少しずれを覚えることがあのはやむを得ないが、そこは哲学を学んだ著者の強みであって、しかも易しい言葉で語ろうと努めているがために、理解しやすい配慮を強く感じる。いくつかの著者の強い主張が明記され、そのように言い切ってよいものか、と少し立ち止まることもあるが、逆に時を経た私のいまいる今に、著者はここに何か付け加えるものがあるのだろうな、という気がしてくる。
 科学的な議論や、倫理問題は、その都度古びてくるところがある。そこに神学をつなぐことにはリスクも伴う。その学的見解が撤回されることがあると、神学はどうなっていたのだというふうに見られる可能性があるからだ。しかし、その時代その時代を歩む私たちは、恐れる必要はない。たえず神に向き合い、神から言葉を戴きつつ、力をもらって歩むとすれば、何も案ずることはない。神学がたとえ崩れても、神の愛と教えは少しも揺るがないものであるからだ。病む時代に、本書のメッセージは、なおも輝きをもつものだと言えるであろう。




Takapan
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