本

『癒し癒されて』

ホンとの本

『癒し癒されて』
下稲葉康之
いのちのことば社フォレストブックス
\1300
2003.12

 サブタイトルに、「栄光病院ホスピスの実録」とある。かつて福岡亀山栄光病院と称した病院の名である。福岡のホスピスとして有名である。著者は、ここの副院長などを務め、ホスピス長として活躍している。地元ではたいへん有名であるし、キリスト者としても尊敬されている。この本には、その著者の救いの証しが詳しく載せられている点でも珍しく、また読み甲斐がある。
 ホスピスについての理論も少し載っている。が、殆どはそのサブタイトルの通りに実録である。冒頭のカラー写真がまた衝撃的でもある。なかなか普段見られない系統の写真が続く。死を迎えた人とその周辺の様子。しかし、それは本文の中でも再三告げられるように、しばしの別れの挨拶であり、天へ旅立つ喜びの時でもある。いや、そう単純に言うのも語弊がある。悲しくないわけではないのだ。思い切り悲しいのだ。それでいて、その死を受け容れていくあり方が、確かに神が共にいるという中でなされるのだ。神の祝福がそこにあることを、誰も疑うことがないという場面となるのだ。
 幾多の患者の記録が続いていく本編であるのだが、その途中には白黒の写真が幾枚も添えられている。貴重な証しであり、真実であることを告げる情景でもある。だが、その心の内実については、写真には写ることのない部分がやはりある。それが、このホスピス長の、あるいは遺族の文章としてリレーされていく。
 読んでいて、切ないことは間違いない。活躍の絶頂にあった人が、突然体の変調を来す。あるいは、倒れる。検査すると、余命幾ばくということが明らかになる。そこから、死に対して悲しんだり怒ったりという過程を経て、鬱的にもなることがあるが、神を信じて立ち上がる。そうして死を前向きに迎えていく。キリスト教のホスピスであるから、そこには聖書やキリスト教信仰が関わることになる。単に生物学的生命時間を伸ばすために徒に技術を使用するのではなく、人間としての尊厳を重んじつつ、どのように取り扱っていくのか、ホスピタルの原意に沿うように、もてなす精神を根底に置く。そこに、ホスピス治療の根拠がある。
 ホスピスに関わる牧師もいる。そして、私も尊敬する方をこの病院で送っている。たとえ地上の教会に失望しても、この生命の尊厳を大切に扱うことで成り立っているホスピスでは、裏切られない。それは、ここにキリストが確かにいるという証明にもなる。そう広い豪邸のような病室でもなければ、病院でもないのだが、人が生きるにはこれだけの場所があればよいと十分納得させるだけのものがある。何より、心が豊かになるのだ。
 などと分かったふうなことを言いつつ、私がここで入院して死を直に見つめたことが今のところないわけなので、偉そうにこれ以上語るのは控えよう。なまじ門外漢が知ったふりをすることほど、尊厳を傷つけることはないからだ。
 実は、著者名として、もう一人名を連ねている。下稲葉かおり。著者のお嬢さんである。海外に留学して、ナースとしての学びをし、また教えることもしている。ホスピスの精神を、さらに広める働きをしている。そのレポートが、本の一部を成しているのだ。これもまた、なかなか知り得ない情報でもあり、読み応えがある。
 死だけは、誰にでも平等に訪れる。マザー・テレサもまた、どの生命にも最大限の尊敬を払いつつ、出会うすべての人を人として取り扱い、もてなした。これは言うほど簡単なことではない。ハイデガーは、死を遠ざけて考えないようにしている人間のあり方を「頽落」として、人間たる人間の対極に置いた。私たちは、問いかけられるだろう。お前は頽落していないか。死をどう見つめるのか。
 そのためには、理屈もいいが、幾多の人の証しを見ると、実にいい。先輩方の話を聞くのは、どんな立場の人にとっても、よいものだ。




Takapan
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