本

『いつもの言葉を哲学する』

ホンとの本

『いつもの言葉を哲学する』
古田徹也
朝日新書
\935+
2021.12.

 ウィトゲンシュタインについての分かりやすい本を書いた人だと後で気づいた。言語についての堅い話がお得意である。が、これは至って分かりやすい。「いつもの言葉」なのだ。なにげなく広く使われている言葉遣いだが、ふと考えると、何かおかしい。違和感が消えない。そんな言葉があるものだ。私は実はかなり多い。こだわる必要のない場面もあるし、事実使っているのだが、何か引っかかる。抵抗がある。そんな言葉がいくらもある。本書は、それを一定の共通項で括りつつ、多くの実例を掲げて、それについての奇妙な背景と、そこに潜む問題、そしてこれからどうすればよいのだろうかという指針などを自在に語っていくものである。そこに挙げられた実例としての言葉は、たいてい、私もまたかねてから疑問に思っていたこと、あるいはすでに問題として挙げて検討したことがあるものだ、と言っても過言ではないだろう。言葉に対して考えるというのは、そういうものだ。そのようなものに、疑問を抱くものなのだ。
 序章で著者は宣言する。「本書は、私たちの生活のなかで息づく言葉のありようや、その重要性、面白さ、そして危うさというものを、多様な観点から辿っていくものだ。」そして、結論的にだが、「言葉の意味や用法というのは、私たちの社会や生活にとって些末なものではなく、むしろその生命線であり急所でもある」とも述べている。
 因みにここでもまた、「批判」の必要性が、それと「非難」との違いを際立たせる形で語られているのは、一般の方々のためには、やはりどうしても必要なことであろう。これは私も気をつけている。「批判」は検討するというような意味合いの言葉なのであって、悪口を突きつけるようなことではない。言論活動においてどうしても必要なことなのだ。
 お子さんの使う言葉からヒントを得たような言い方をしているものとして、「丸い」「四角い」とは言うのに「三角い」とは言わないが、それはどうしてか。ここから本論が始まる。「料る」「ばさける」という、知らない言葉が紹介されることもあったが、これは幸田文さんの造語のようだ。しかしその言葉でなければ伝えられないような、見事な使い方であるようにも見えてくるから不思議だ。「かわいい」と「かわいそう」との本来のつながりや、「先生」と自称することの問題点、「豆腐」は腐っていないか心配ではないかという語感、等など興味は尽きない。
 言葉はまた、社会的に規則の中に決められているものもある。言い方の制限があり、現に社会の中で起きている「炎上」のような問題もある。そして政治家の答弁の中にしばしば潜む、全く無責任な言葉がけしからんことなのだということを、読者にはっきりと示す。言葉は責任感を伝えるものとなるのである。だが、社会がなんとなくそれを許しているとなると、言論が死んでいくかもしれない。なんら謝罪にもなっていない言葉を、謝罪のつもりで語っていることにもっと敏感になり、指摘しなければならないはずなのだ。それを社会が気づかず許してしまっているから、いつまでも誰も何も責任を取らないような世の中になってしまう。そんな懸念が強く主張されているように感じる。
 しかし、近年よく使われる言葉にも注意しなければならない。言葉は時代により移りゆくが、本来の意味を宿してもいる。それを歪めてしまいそうなのか、それとも時代が新しい意味を要求するのか、その辺りは一概に決められない情況にあるようだ。著者は、新しい言葉については、それを使わねばならない場面もあることを十分理解した上で、できるだけ初期に、新しい言葉の明確な定義や使い方を決めていく必要があると提案する。但し、それは権力者が決めるのではなく、皆で話し合って、のような基盤を必要としている様子が窺える。但し、具体的にそれをどのように、というところまではここでは提示していない。やはりどこまでも課題なのだろう。
 その点、私が参考にしたらよいと思うのは、手話である。新語に対応する手話は、いまの時代、一定の権威をもつ手話の代表グループが定めて発表する。それがよくなければまたボトムアップされてきた意見により修正すればよいのだが、概ね取り入れられているようだ。語彙の少ない手話動作は、新しい語に対応するために苦慮するものであろう。「新しい手話」が毎年まとめられて紹介もされるが、ネット時代のいま、その都度何らかの形で発表されていく。これは、聴者の言語についても、参考になるスタイルではないだろうか。
 もちろん、権威者が勝手に言葉を決めていく、ということが望ましいのではない。それでも、専門家が専門用語を使うのは、それが従来の語彙でその概念を表現することが難しいからである。世の中でその新たな概念を使わねばならないときには、専門用語が使われることも仕方がない。ただそこに、人々の思い込みではない、一定の規定が、できるだけ初期に必要ではないか、というのが著者の強い姿勢であった。その際、全く新しい手話の形を共通理解に運ぼうとする、手話の世界で通常なされているこの形は、何かの啓発にならないだろうか、という意味である。
 そのためにも、いま現われる言葉、流行する言葉が、どういう背景から、どういう心理から、用いられているのか、についての分析は役に立つ。あくまでも語感の問題だということもあるから、それは学究的に解明されなければならない、というわけではない。
 そして、従来の使用法から変化して使われるようになってきた言葉というのもあるわけだから、私たちの考え方や捉え方の変化もそこには混じってくるだろう。その意味では、私たち自身の変化と、そのあり方というものが、ここには関与してくるものである、と見ることもできるだろう。つまり、私たちは言葉によって、私たち自身を知るのである。
 本書最終章の、「なでる」と「さする」はどう違う? という項目は、言葉の違いを指摘することの難しさを興味深く語ってくれるものであったが、伊藤亜紗さんが『手の論理』で、「さわる」と「ふれる」はどう違うかをモチーフとして、人間の身体感覚を探究する歩みを語ってくれていた。伊藤さんは美学という肩書きであるが、この身体論は実に傾聴に値する。言葉が生まれる故郷が、思想や観念であると共に、身体感覚が伴うものであることの重要性を噛みしめなければならないだろう。
 こうして、本書の著者の提言は、どんどん裾野が広がり、大きな意味での人間学とつながっていく可能性を秘めている。たとえば著者自身が最後に述べているように、道徳という次元へのつながりは、本書でも十分意識され、きっかけができているのだと捉えるべきではあるだろう。ここに芽生えたものが、生長して、広がっていくことを、強く望むものである。
 なお、著者は「あとがき」で、自身の両親のことに触れている。両親が、自分の著書を見てくれるのはいいが、難しいから分からない、といつも言うのだそうだ。だから今回は、その両親が読んでも楽しんでもらえるものにしたいという思いをもっていたのだという。身近な言葉から深く広く考えて行くということについては、多くの人を巻き込んでいくだけの力をもつ、有力な営みであるだろうと、私も思う。




Takapan
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