本

『イチジクの木の下で・上巻』

ホンとの本

『イチジクの木の下で・上巻』
山浦玄嗣
イー・ピックス
\1600+
2015.4.

 この方の仕事については、とやかく口を挟むべきではない。ケセン語という独特の概念をもたらし、聖書に対する並々ならぬ情熱を、本業の医療の狭間で形にしてきた、ほんとうに頭の下がるお仕事に邁進して来られた方である。知られるようになったことはとてもよいことだと思う。
 最近は、福音書について『ガリラヤのイェシュー』という形で、方言を駆使した上で、独自に研究し工夫した訳を世に呈している。この訳を許に、どうしてそのような訳語に決めたのか、そこにはどのような解釈や思いがこめられているのか、そうした種明かしのようなことをしたのが、この本である。従って、まとまりがあるというよりも、それぞれが四頁ずつでコラムのようにして、連なっている。読む方にとっても読みやすいし、書くほうも書きやすかったのではないかと思われる。そしてかの福音書訳と併せて読むように記されているし、副題の一部に「新約聖書四福音書解説書」であると銘打ってある。その通りだろうと思う。
 さて、ギリシア語に、ある意味で素人ながらぶつかり、有り体の神学や特定の教えに支配されず、いつも自分で考えて自分で神の声を感じ取ろうとする著者の意気込みは、まことに尊敬に値する。その姿勢には共感するし、自分で聖書を読むということはそのようでありたいと思う。そしてギリシア語の理解も、福音書を全部訳すとなると、並大抵の努力では済まないというみとも分かる。実際私などそこまでできないので、読んでいて、教えられることが多々あった。また、普通の解釈ではないところの説明も、心を空しくして読めば、ギリシア語と日本語との関係の中で、なるほどと思わせるところもたくさんあった。その意味で、大変勉強になった本の一冊である。
 だが、他方で、これを全部信用してはならないぞ、とも感じるのだった。確かに、日本語との関係で、そのように訳すのは適切でないとか、特に著者がよく言うのが、かつてから使われている伝統的な教会用語が、実は教会用語に過ぎず、日本語として本来考えたときに、日本語の意味からはずれてしまっているという指摘は、重いものがある。日常語の意味と全く違ったり、不自然な日本語を無理に発明して、教会用語としているために、聖書の言葉が一般の人にはまるで伝わらないという様子が示されると、これは確かに反省点であろうと思われたのだ。しかし、著者は悲しいかな、やはり神学を系統的に学んだとは言いづらく、まして、聖書思想の背景などについては知る由もない場合が多々ある。従って、いわば哲学的・神学的歴史や背景に基づいて作られた概念についてご存じない、あるいは理解なさっていないと思われるところもないわけではなかった。そのために、背景的理解に乏しいゆえに誤解して、いわば思い込んで別の日本語へ走って行ってしまう、というような場面を時折感じるのは、ある意味で致し方ないにしても、残念ではあった。国語辞典やギリシア語辞典の訳語を並べてそのうちのどれだろうか、と検討する場面がいくつもあったが、これは公平なようで、実は弱みでもある。辞典に現れた解説の奥にある深みについての知識や思索に欠けているためである。もはや辞典の記述しか頼るところがないわけで、間違うと、そこから別方面への想像に走る危険があるということは、当然ありうることだろう。辞典の言葉には、それが作られた背景がある。その説明の言葉を入口にして、自分の想像で突き進むと、元の意味や世界とは、違うところに暴走する危険が伴うものなのである。
 そこで、著者にはお叱りを受けるかもしれないが、根本的なところの指摘をさせて戴くと、どうして教会用語なるものができているのかというと、既製の日常語では表せない概念や思想が聖書にはこめられていたからである。これを、通常の意味の言葉に直してしまうと、概念が歪み、あるいは変貌してしまう。そこで、日常的な言葉からかけ離れることを承知の上で、敢えて、別の特別な変な日本語をあみ出したという基本的に経緯がある。だからある意味で「神」と日常語で訳してしまったことが悔やまれる、とも言われるのだ。これを、すべて日常語にすべきだ、というのでは、聖書独特の概念を潰してしまうこと、あるいは私たちの小さな器の中に聖書を盛り込んでしまおうとすることに他ならない。不自然な新語造語には、それ相応の理由があったのである。
 また、著者は、かなり合理的に説明をしようという思いが強い。これは、ラジオなどで語られているのを聞いてもすぐに分かることではあるが、福音書などの奇蹟を、究めて合理的な解釈でありきたりの現象を大袈裟に書いてしまったのだというような基本的なスタンスがある。食べ物を分けたのも、かなりの想像力で、真相はこうであったとか、湖の上ではなく岸辺を歩いただけだとか、決めつけてここに描いている。そうしたことを、また小説めいた形で載せていたりもするので、全てを信用してしまうと、聖書自体を歪めてしまう虞がある。
 従って、読み方には気をつけなければならない。勉強になるのは間違いないが、その指摘を利用して、読者がまた自分で考えていくように、あるいは自分で神の言葉を受け止めていくようにすることができたらよいと思う。これはまだ上巻であり、残り半分があるようである。それもまた楽しみにしているが、もしかすると哲学的な背景をもう少し学ばれて、また著者の見方が少し変わってくるとよいがな、と感じた。




Takapan
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