本

『異端の時代』

ホンとの本

『異端の時代』
森本あんり
岩波新書1732
\860+
2018.8.

 高校の時、賑やかな男子クラスを経験した。男子の方が人数が多かったのである。その時に「異端児」というコールがどこからともなく起こることがあった。ずいぶんとお祭り好きなクラスだったのだ。みんなと違うことを言い始めると、とたんに合唱が始まる。これはいじめとは無縁なこと。クラスの宴会癖のひとつなのであった。後はけろりとしている、一過性の騒ぎに過ぎない。
 聞き慣れない言葉で、私もよく意味が分からずその騒ぎに参加していたのだが、今にして思えば、この「異端」という言葉は大変な意味深いものであった。キリスト教に限らないのかもしれないが、用語としてはやはりキリスト教の歴史に塗られている。そこには基準となる聖典が定められようとする営みがあり、そうなると、重要な点で異なるものを弾き出さないといけなくなるのが常であった。そこに「異端」が生じることになる。
 これは現代でも同じであろう。プロテスタント教会はよく、「この教会は○○○や○○○とは関係がありません」と案内パンフに記し、さらに「○○○のことでお困りの方があればご相談ください」と加えてあるところもある。異端とは一線を画することの宣言であり、そういう悩みをもつ人に対する呼びかけである。しかし一読してそれで信頼して相談をもちかけるということはまずないだろう。異端かどうかということも分からないからそうなっているのであろうし、そもそもこれを発信している教会が正統であるのかさえ判断がつかないからである。
 結局、誰もが、自分が正統であると考えているわけである。「我々は悪の組織だ」と宣言するのは子ども向けのアクションドラマ。「私たちは異端です」と宣言して喜ぶグループはない。だのに、一方が他方を「異端」と呼ぶ。これは果たして適切であるのかどうか、気になるところである。
 こうして「異端」という概念について問い直す作業をしたのが本書である。異端は、歴史の中で生じた。そのとき、どのような構造が成り立っていたのだろうか。キリスト教信仰はもちろんのこと、政治や歴史に詳しい著者が、おそらく長年の関心から、渾身のメッセージを、十分な根拠と共に提示してくれていると言ってよいだろう。自分を前提として相手が異端だ、とするのが普通の異端に関する書であるが、ここではメタ構造になっていて、異端というものの本質を、ある意味で哲学的に解することとなる。その意義は大きいと思う。
 著者は、近年の著書において、ポピュリズムや反知性主義と呼ばれるものに関心を寄せ、多く論じている。とくにトランプ大統領の登場は、その検討を余儀なくさせていると見ている。本書は、丸山眞男の概念を糸口に、異端を好む日本人の姿を明らかにすることから始まり、正統が如何にしてできていくのかを歴史を通して辿る。その中で、聖書についてであるが、聖書が定まってそれに反するから異端である、という、ありがちな論理は根本的に違うと指摘する。つまり、先に正統ができてから、次に正典すなわち聖書ができたという順序を明確にしておく必要がある、というわけである。歴史書があるから正統な政権なのだ、と為政者は教えこもうとするが、事実はその逆で、正統な政権を奪い取ったからこそ、それを正統とするような教義ならぬ歴史書を編纂して歴史をつくるのである。
 こうしてこの本は、正統と異端について、私たちのぼんやりとした理解に反省を促すものとなった。むしろ、本来の意味での異端が必要だという。異端は、時を経て正統にもなる。なりうるものである。確かに、キリスト教の異端を振り返っても、どうしてこちらが異端となったのか、おかしいのではないか、と疑問を挟む余地のあるような場合もあった。そして現代の教会そして信徒たちは、異端ではなく歴史に刻まれた教義を素直に信じている。もっと一人ひとり違う神との出会い方があるのではないか、とも考えられるし、そのように見なしているグループもあるが、一定の枠の中で教義から外れると、異端のレッテルを貼られ、キリスト教とは見なされないようになってしまう。時にその対立によって戦争や殺し合いがありもしたが、さすがに現代では宗教戦争は避けられているものの、対話が成立せず、互いに相手を異端と罵っているような状況はある。個人の信仰は、その団体が異端とは考えていない教義を押しつけることによって保たれているという部分が少なからずある。果たしてそれでよいのだろうか。教会が団体や組織として行動するならば、一定の共通枠がなければならないのは言うまでもないが、果たしてその教えだけが正統であるのかどうか、考慮する余地はあるだろう。
 現代政治から歴史的事件、芸術作品まで、新書という限られた箱の中で多様な分析を試みつつ、本書は、私たちの様々なニーズに応え、結局のところ現代と未来を指向している。私たちはいまどこにいて、どこへ行こうとしているのか。安易に自分を正義としているような態度が危険であることに、私たちは気づかなければならないだろう。それは、いまのキリスト教世界も、もちろんそうなのである。断じて。




Takapan
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