本

『遺体』

ホンとの本

『遺体』
石井光太
新潮文庫
\550+
2014.3.

 2011年10月に発行されたものの文庫版である。
 東日本大震災の後間もなく取材に入り、関係者と接触する。東北に特に関係があるのでもない。著者は、いわばルポライターである。現場での取材をモットーとして、報道されない人間の真実に近づいて描こうとする。東日本大震災は大きな課題となった。だがもちろん、それは自分の仕事のためだということで素材にしているというわけではないだろう。これを伝える義務が自分にはある、という使命感がある。しかしまた、そこにいる人間に直に触れたいこと、人間を知りたいこと、心に寄り添いたいこと、そうした気持ちが皆無であれば、できる仕事ではないだろう。
 きっと人柄もあるのだろう。三か月にわたる釜石を中心とした取材の中で、200名以上の協力者を得て、話を聞かせてもらっているという。そのうちのいくらかの人の名を出して、その人の経験してきたことを、読者に伝わりやすいように綴っていく。ある程度時間軸に沿った形で、幾人かの視点から捉えた被災地の姿を置いていき、また同じ人がリレーのように登場するという構成となっている。そのおもな肩書きは、民生委員・医師会会長・歯科医師会会長・消防団員・市職員・自衛隊・保安部・歯科助手・住職などである。
 歯科関係は、お分かりであろう。遺体の身元判明のために、歯の治療跡などが大いに役立つのである。歯が、損傷しにくいからである。
 そう。本の題名にあるとおり「遺体」がこの物語の主人公である。どの頁にも、「遺体」が登場する。あまりにもリアルに興味本位で描くようなものではない。だが、かなり生々しい描き方をする。想像力のある方は、これだけの活字でも精神的に辛くなるだろう。それでよいと思う。読んで辛くなるくらい、実はなんでもないことなのである。当事者は、そして亡くなった当人はある意味でなんの感情もないのであろうが、その遺体を確認し、引き取ろうとする遺族は、どうであろうか。リアルどころの話ではないのだ。視覚的にもだが、臭覚においても、厳しいものがあるだろう。その辺りを読者に気づかせるように描くのは、やはり著者の力量というものであろう。そのさじ加減次第では、何も伝わらないか、逆にセンセーショナルなものでしかなくなってしまう。
 自ら被災者でありながら、遺体の扱いのために役を買って出る人が多く登場する。遺族に、見捨てたのかと関係ないのに罵倒されても黙っている。なんとかしてくれと無理を言われる。あるいはまた、なんで死んだのかと泣き叫ぶ家族。いたたまれない場所に、じっと居続けるこの人たちの見たもの、感じたもの、それをライターは私たちに届ける。私たちも、心してこれを受けなければなるまい。
 子どもの遺体に、お母さんのところに帰ろうね、と呼びかけたり、寒かったねと話しかけたり、遺体に向けて、心を向けるこの人たち。確かに、そうなっていくことだろう。遺体であるかもしれない。腐敗しているかもしれない。見るも無惨な姿は、日が経つにつれて多くなってくる。だけれど、それはつい何日か前までは、語りかけるとレスポンスがある、人間そのものだった。時に、知り合いの遺体に出会う。それは辛かったはずだ。しかし誰であろうと、そこにいたのは、ついこの間まではただの人間だったもの。話しかけることで、ひとを大切に扱うという気持ちをそこに向ける。遺族がいたらそれで間違いなくよいのだけれど、遺族がそこにいなくても、そのように扱う。
 そこには、心がある。
 想像を絶する環境で、ボランティアとして遺体と向き合っていた援助者たちは、そのようにして一人ひとりを、まるで人格ある存在のように扱ってきたのだ。それがこの本で生々しく伝わるとしたら、被災者や援助者たちは、いくらかでも心が支えられるかもしれない。そうあってほしいと願う。
 後半では、土葬の問題が大きくなる。時間が経ってくる。しかし火葬場も最初は停止しており、遺体は次々と運ばれてくる。やっと稼働した火葬場でも、1日に焼ける数は十数体であるという。腐敗も進む。しかし骨を拾うにも、火葬は必要だ。しかも、遺族が分からない、あるいは当人の性別すらどうかというような遺体が並ぶ中で、どこからどのように手をつけてよいか分からないだろう。誰もが遭遇したことがない事態が進行しており、その最中に置かれているのだ。
 臨時に土葬でもしないと無理だとなってくるが、それへの反対意見もある中で、他の町で火葬してもらう手筈が付く。だがその運搬中に車が事故を起こしたら、この計画自体が進行できなくなる。様々な緊張の中に置かれた援助者たちは、私にはもう超人のようにしか見えない。精神的にダメージがあったであろうに、それでも人々のためにと、ある意味できっと夢中でやっていたのだろう。
 読経ひとつに人々が期待をかける住職。その寺自体が流されている中で、弔いのために奔走する。仏教界が動いて、宗派にこだわらずに相談でき、助けるような仕組みをつくる。人々の心が、ほんの少しでも、休まる場所ができることになる。
 残念ながら、キリスト教会は本書に微塵も出てこなかった。仏教に人々が期待を寄せていること、必要としていることはよく分かった。だがキリスト教会は無縁だった。もちろん、多くのキリスト者が献身的に働いていたことは知っている。言いたいことは、教会が何をしたか、ではない。人々が新たに、教会に心の拠り所を感じることがあっただろうか、ということである。
 もしかすると、教会は勘違いをしていないだろうか。なんとなく若い人たちは、教会に好意をもっており、現代のセンスは寺ではなくて教会を好むかもしれない、なとど。黙っていても、古くさい寺よりも、教会がいいと思う世代に変わっていくのではないか、という勘違いをしていないだろうか。違うのだ。結婚式は確かに、キリスト教的なムードが好まれる面があるかもしれない。だが、弔うところにキリスト教は全く出番がないのだ。やっぱり仏教であり、供養なのだ。死から復活を希望し約束するキリスト教が、死の場面で出番がないとなると、これは全く必要とされていないに等しいのではないのか。ウェディングドレスのデザイン性だけでキリスト教が好まれているかのような錯覚に陥ってはならない。キリストの死も復活も、日本人には何も意識されていないのだ。
 遺体という、ともすれば即物的になりかねない題材を描きながら、そこに人の心があることを伝えていたこのレポートを、教会関係者はとくと味わうがいい。自分たちがどう必要とされているかを知り、何を伝えようとしているのかを、感じ取るといい。空理空論でない、そこにある心に寄り添うという事実がどういうものであるのかを、学ぶべきだろうと思う。いったい、何を根拠として、優れた宗教だなどと高ぶっていたのだろう、と気づくところから、キリスト教世界は、歩き始めなければならないと強く感じた。
 それにしても、被災者は、こうした経験を伴って今日を迎えている。その心に刻まれた傷は、もうなんとも形容できないものであるはずである。それを想像できないでいて、震災がどうのこうのと偉そうに言うことが、どれほど酷いことであるのか、思い知ることが必要である。幾ら抑えているとはいえ、著者の残酷な表現の数々に、そしてそのことを語ってくれた方々に、ただただ頭が下がるばかりである。




Takapan
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