本

『意識と本質』

ホンとの本

『意識と本質』
井筒俊彦
岩波文庫
\699+
1991.8.

 いつか読みたいと思っていた本のひとつ。なんだかんだで機会をもてず、ついに今回それを果たした。
 1983年発行だというから、ひどく古いわけではない。副題は「東洋哲学の共時的構造化のために」と付いている。歴史的な、特定の思想を問題とするのではなく、いわば普遍的なレベルで、その構造を考えてみようというのであろう。
 イスラームに造詣の深い著者である。しかも、東洋哲学にも詳しい。その上で西洋哲学も深く学んでいるのだから、強みたっぷりである。普遍知なるものを目指すとすれば、この著者はその目的地に最も近い場所にいるのかもしれないと期待できる。  ひとは「本質」とは何かを考える。それを言語と意味、人間の意識という環境の中でのみ、考察しようという船出が始まる。意識が日常を経験するならば、そこにはすでに本質なるものを了解していることだろう。そんなふうな思考が積み重ねられて、最後まで走っていく。
 この意識という言葉で示すものについては、東洋思想が力を発揮する。無とか無意識とかいうものは、西洋哲学でまともに論じられはしなかったからである。しかしそれを果たして言葉により告げることはできるのであろうか。西洋の「存在」なるものが、西洋世界だけで考えていたものとは、全く違う次元から立ち現れてくるような感覚を知ることができる、そんな体験のできる本ではないかとも思う。
 それにしても、儒教だの曼陀羅だの、恐ろしいほどの博学であり、思索家である。ユダヤの神秘思想もそれに合流する。その花々を私ごときがここで効果的にまとめられるはずがない。どこまで何を分かったなどと言われたら、呆然と立ち尽くすだけである。
 ただ、分節から無分節へ、それからまた分節へ、という移行が中途で鍵になる思考枠であるが、ここだけを押さえておくと、いくらかでも読み進めることができるようになるだろう。「山は山である」から「山は山ではない」に移り、再びまた「山は山である」に届くのであるが、最初と最後とは、当然異なる。これを西洋的な論理学で示すことは難しい。そのため、三角のような具合で、シンプルな図解がなされている。このあたりは、経験的にも、納得のいく人は多いのではないだろうか。
 たとえば、ただ何でも相手を許すだけの愛があるとする。しかしそれは相手のためにならないと知り、許さないような対応をとるようになるとする。けれどもそれで終わるのではない。再び相手に対して優しく、許すようにもなれるであろう。しかもその時には、最初の時とは意識が違うことは言うまでもない。困難を乗り越えてなお、最初と同じようなことをしている表向きがあるとしても、それは最初の時とはやはりどうしても違うのだ。
 最後のほうで、ユダヤ神秘主義たるカッバーラーの思想が詳しく紹介される。アラビア語もこれまで持ち出してきた著者であるが、ここではヘブライ語を引き出してきて、神的生命の自己表現の形、あるいは存在世界の深層構造を十の段階で解いていくところがあるが、これはなかなか読み応えがある。ヘブライの神との関係の中で説明されていくので、旧約聖書そのものとはまた違うことだろうが、何かしら参考になりうるものではないかと思われるのだ。
 こうして終焉を迎える本論は、東洋哲学における意識というのが、どうやら西洋近代で考えられた意識とは頗る異なる構造を有するものであることを読者に念を押して伝える。私たちは、本質概念なるものに前提した探究をするべきではない。これほどに見せつけられた、世界の思想を踏まえつつ、西洋も東洋も射程におく日本における私たちが、ひとつの有利な場所にいるのかもしれない、と気づかされるものである。
 ほかに本書は、3篇を有する。イスラーム哲学に関する「本質直観」と、「禅における言語的意味の問題」、それに禅問答についての「対話と非対話」である。言語で伝えきることが可能とする考え方がある一方で、原理的にも現実的にもそれはできないとする立場もある。世界は対話を必要としているが、著者は、日本人にその対話の架け橋となるべく期待があるのだというふうに捉えているのではないかと思う。だとすれば、私も日本人である限り、その期待を受けていると考えてよいのだろうか。あまりに粗末で無知な者ではあるが、完全など求めないにしても、対話はあってほしいと願う。但し、身近な隣人とも話が通じ合わない現実に、多大な期待をもつのことには慎重であらねばならないと思う。




Takapan
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