本

『石垣りん詩集』

ホンとの本

『石垣りん詩集』
石垣りん
角川春樹事務所
\1800
2022.6.

 この人の詩に対して、私はどうアプローチしてよいのか分からない。この人の生活や人生を追い込んだのは、男社会だと思うからだ。その男の世界の一部でのほほんとしている私は、どうにも立ち向かえないのだ。せいぜい「すみません」くらいしか言えないが、そう言えば益々この人を苦しめるような気さえする。
 関東大震災の少し前に生まれ、この震災のために母親を亡くす。父親はやがて再婚するが、それは死別や離婚により数度繰り返される。りんは、小学校を出ると、いまの中学生ほどの年齢で日本興業銀行に見習いとして就職し、55歳の定年まで勤め上げる。二十歳前から同人誌を通じて詩の才能を発揮し、以後作品を発表する。但し、終戦前に家が焼け一家離散、戦後も大病を患うなど、不幸なことが絶えなかった。ただ、その詩は一般に受け容れられ、多くの詩人の心をも掴んだ。
 教科書にも多くの詩が掲載されている。『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』は、詩であると共に詩集の題名でもある。「それはながい間/私たち女のまえに/いつも置かれてあったもの」で始まる詩は、とくに有名であるが、これは詩集としては最初のものである。続いて詩集『表札など』を発表。これは、詩壇の芥川賞のようなH氏賞を受けた。私もその代表となる「表札」にはショックを受けた。昔読んだかもしれないが、今回また年齢を重ねて、グサリときたのだ。「……他人がかけてくれる表札は/いつもろくなことはない」という謎かけは、先を読む前にも予感していたところへ進むのだが、名札のようなものを、このような形で分類できるというのは、できそうでできないことだと思った。
 戦争について、生活苦について、様々な批判めいた眼差しが、言葉の隙間から覗いている。家族などの死を経験する思いからだけ湧き上がってくる言葉が居並ぶ。ストレートで、そしてなお、時に意表をつきながら、ハッとさせた心を掴むような力を寄せてくる。
 銀行勤めとその不条理のようなものについても、まるで社会派の人のように突いてくることがあるが、もちろん社会問題を扱うではない。あくまでも自分の眼差し、ここに立つひとりの女として生きる人間の見るもの、聞くもの、感じるものを、素朴な言葉で鋭く刻みつくるようなことが繰り返される。
 ハードカバーで愛蔵版というような本である。キツネがちりばめられた表紙と裏表紙が、なんともいえないムードを運んでくる。収められた詩集は、『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』や『表札など』をはじめ、『略歴』と『やさしい言葉』であるが、そこから選ばれた形でこの本ができあがっている。それと、「未完詩篇」と呼ぶ形でふたつの作品が最後に加えられている。
 ところどころに、線描きのイラストがあり、読む者の心を整える。文字ばかりで終始するよりは、このわずかな空間が、一呼吸を贈り、さあまた、と次の詩へと向かう力を与えてくれることになる。
 世界をどこで切り取るか。常識的な機能を離れて、ただ自分にはどのように感じられるか、それに忠実に仕える僕となった詩人は、誰も思いつかない言葉の組み合わせを持ち出して、無邪気にぶつけてくる。そして追っかけて来ないでくれ、とでも言いたげに、言葉だけを遺して走り去る。
 不幸な生い立ちが、恨み辛みとも受け取られかねないような、しかし言わねばならないような、確かな命に刻まれた言葉を生み、私たち多くの者に、自分だけでは気づかないような世界が感じられるようなプレゼントを渡してくれた――などというのは、失礼でありこちらの傲慢であろう。できるなら、時代的にも生活環境的にも、苦労をこれほどにも重ねなくてもよかったであろうに、などというのもお節介であり、他人事とする冷たさの塊しかもたらさないであろう。これでいいのだ、と作者は口元に笑みを浮かべるのだろうか。自分の心は届いたかしら、と少し不安な目で、読者に向けて問いかけてくるのだろうか。
 ほかの詩集からも、声を聞いてみたくなった。私の母の世代に近い。その時代の女性の生き方と、見ていた地平のようなものを、垣間見たくなったからである。




Takapan
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