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『ヨブ記講演』

ホンとの本

『ヨブ記講演』
内村鑑三
岩波新書
\660+
2014.5.

 内村鑑三の文庫は、岩波文庫からちらほら出ている。世に問うのかライブラリーなのか意図までは読みとれないが、キリスト教的思想について重視してくれている会社であるから、明治期のこの著者の叫びを伝えるという仕事に、私は感謝している。
 ヨブ記は有名な、神義論の書である。旧約聖書の中ほどにあるが、ヨブという信仰篤い男は、立て続けに不幸な目に遭う。その背後に、神が悪魔に自慢したヨブのすばらしさについて、悪魔がヨブだって不幸な目に遭えば神を呪いますよ、と投げかけたことにより、神が悪魔に、ヨブを不幸に陥らせることに同意して様子を見た、という背景のあるストーリーである。不思議な文学書である。ヨブという人物が本当にいたのかどうかは疑わしいのだが、実際にいようかいまいが、ここには、神を信じる者が問いたくなる問題が凝縮されている。
 どうして善人が不幸に遭うのか。時に悪人が幸福な人生を送るのは何故か。
 知恵文学はほかに、悪者は不幸になる、としきりに言い、神に従う人生を強烈に推し薦めているのだが、はたして現実はそうとばかりは限らない。今の日本でも、勝ち誇ったように言う者がいる。神とやらが存在するのならば、正直者が不幸になるのは何故か。神を信じて幸福にならないのはどうしてか。つまり神などいないのだ、などというように。
 論破は実は単純である。「神を信じれば幸福になる」のならば、人は「幸福になるために神を信じる」ようになるに違いないからである。英語でto不定詞は、感覚的には結果をもたらすのだが、日本語訳をするときにはどうしてもto以下を先に言おうとして、目的を言うようになってしまう。しかし、この信仰と幸福の関係は、そのどちらも自由に行き来してしまうのが人間の性なのである。だが神の視点は、つまり聖書の指摘は違う。神を信じることが先でなければならないのである。
 内村鑑三にとり、このヨブ記は格別の書であるに違いない。詳しくは本書の解説を参照願いたいが、内村自身、不幸な人生を歩んできた。もちろん有名な不敬事件もそうであるが、その結婚のことを知る人ならすぐに肯くことだろう。決して、この世的に恵まれた人生ではなかった。だが、信仰については自負があった。自分の信念については引くことがなかった。意地悪く言えば、内村は、自分は義人だと捉える側面があったのであり、神を信じて憚らないのに不幸がつきまとう、と理解していた部分がきっとあるのである。
 だから、このヨブ記についての連続講演、普通の教会で言えば連続講解説教は、語句を部分的に選びながら丁寧に読み進むのだが、ヨブの心情と自分のとが重なる部分について非常に熱く語る勢いを感じる。尤もなことだろうと思う。説教者は、自分の身の上や自分の深い体験について、聖書と重ねていくのは当然だからである。
 そうであるからこそ、聖書の背後の意味を読みとるという芸当ができる。表面上の言葉を発したその背後に何があり、何があるからこそそのように書かれたのか、そうした視点で聖書を読み解くことができる。それは「正しい」解釈であるかどうか分からない。しかし、そのような「正しさ」というものにはあまり意味がない。聖書はそれぞれの人に取り、真実があり、神には神の真実があるからである。神の真実はこれは動かせない。だが、人の中の真実は揺れ動く。また、人それぞれの場合に適用されていく。内村には内村の味わい方や共感があって、それでいい。内村の処遇などを思うと、その都度深い感慨を味わうことは否めない。
 ただ、前半のスピードが遅すぎることで、結末を急いだことは確かである。その深い事情は知らないが、半分でほぼこの本の大部分が終わり、ヨブ記の残り半分をごくわずかな叙述で終えている。冗長すぎるのを回避したことにもなるだろうが、逆に言えば、前半ももう少し短くまとめられたのではないかと思われる。その意味で、後半の味わいが深い。読者の中に、もしこの文語文をじっくり全部読む暇がないと思われたならば、最初のヨブ記のきっかけの部分を読んだ後、後半に飛んでもそれなりに味わえるものであると思う。そして、時に内村自身の生涯を思い浮かべ、その心情を察するのもよいだろう。
 どうしても、教会という存在をこきおろすような響きの口調が多くなる点は確かだが、その点を割り引けば、内村の個人的体験は大いに参考になる。というより、実に痛い。これを身にしみて感じるというのが、人の良心というものであろう。また、自分自身への慰めが聖書にたっぷりあるということを、味わうことができるであろう。
 ヨブ記の中に、内村はキリストを見た。もちろん、聖書の「正しい」解釈であるかどうかは別として、これは当然キリスト者の見習いたい読み方である。そうして自分の魂が清められていくことを感じ、そのように生きていくならば、それでよいのである。
 文語ではあるが、歯切れ良い文章は、文語訳聖書のようである。味わいたい。




Takapan
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