本

『目に見えない放射能と向き合って』

ホンとの本

『目に見えない放射能と向き合って』
若井和生
いのちのことば社
\840
2012.11.

 岩手県の水沢は、現在では奥州市の一部となっている。岩手県南部で、内陸部にある。従って、2011年の東日本大震災のときには、津波を直接受けることはなかった。
 その地域の教会の牧師である著者は、最初は陸前高田などの被災地への援助を、ひとつのはたらきとして理解しようとしていた。福島の原発事故は分かっていたが、大きな影響はないだろう、との見通しだったのかもしれない。
 だが、放射能汚染は実は確かに忍び寄っていた。200kmほど離れていても、放射能は確かにそこに及んでいたのだ。しかも、教会は神に守られている、との願いも束の間、事実上教会が近隣でいちばん放射能が多く検出されるなどの事態に陥る。
 牧師夫人は、幼い子を守ろうと必死だったが、夫である牧師は、信仰を、などと当初は叫んでいたという。
 それぞれの気持ちが分かる。だが、この牧師自身気づいているとおり、現実にいかに向き合うか、その重要さに目覚めさせられていくことがこの本にあるレポートの主軸であり、タイトルにも含まれる言葉となっている。
 放射能についてなど、知識もなかった。だが、教会でガイガーカウンターを準備し、自ら測定することにより、より関心が強まり、また調べていく。それでも知識は素人レベルだ。ただ、安全ということについてますます考えるようになり、一時は妻子を沖縄に避難させる。そういう中で、沖縄の人々の立場と、福島とを結ぶ線が見え、そこに岩手南部の自分が置かれるようになっていく。
 およそ時間順の構成になっていながら、たんなる日記や記録ではなく、つねに考え方や思想が現実と折り合いを続けながら展開する。ひとつひとつの話題がシャープで、言わんとしていることが明確に伝わる。
 たんに原発をなくせ、という声を、著者は非難するようなことはしていないと思うが、ただやみくもに反対だと叫ぶことに加わる気はないようだ。にわかにそういう強気の声に合致していくことを、ひとつの思想に染まっていく危険な空気の一つであるかのように感じている部分は見られる。そしてその点で、私は読みながら肯いた。
 そう。素人は素人である。だが、聖書に立とうとし、その聖書を当初は空論のごとくに扱っていた自分を知らされ、置かれた現実の中で自分の立ち位置を与えられると、できることを始め、続ける。そういう霊的な心の過程がこの本には綴られている。
 また、何よりも私が共感したのは、この原発自己をもたらしたのが、自身であったのだ、という視点を著者がもっている点だ。これだけは、やはり忘れてはならないことなのだ。私が、原子力発電所を許し、認め、そのでたらめな体質にも加担していたに違いないのだという点を根柢に置かなければ、この問題に解決は進まないはずなのである。
 とはいえ、それがあれば進むというものでもない。人は、自らの罪を感じない。そのことが、東電の危険な対処や事態を隠してきたこととそのまま重なるのであるが、大声を出す人々は、自分が原発を作ったという視点を、概してもたない。自らの隠蔽に気づかない東電と、何の違いもないのだ。
 著者の視点と、誠実な考察、そして迷いや決意など、心の些細な動きについては、直接お読みくださることをお勧めしたい。私のような者が、それを代弁できるはずがないのだ。ただ、原子力発電に変わる可能性を、フィリピンの歴史の中に見つけ、クリーンエネルギーの方向に舵取りができないかという提案は、私も強く言えない考え方だった。実際にそんなことができるのか、怪しいものだと思えてならなかったのだ。政府は、経済と国力を鑑みて、原子力発電を再開すべきだという方向しか見えていない。だが、経済で勝ち抜くだけがすべてではないと著者も口走るが、原発再開を断念しても、一定のクリーンエネルギーが可能ではないかという提案を協力に出しているのは、あまり目立たないが、ひとつの可能性のある道ではないだろうか。
 何も主義主張を述べようとしている本ではない。ただ、当地で痛みを負う者が、自らに誠実に向き合おうとしているのは確かだ。そして、そういうところにこそ、信実の祈りがあり、道が開かれるものであるということに、私たちはもっと反応してよいことだろう。私たちはもっと、言うべきことをきちんと言って、然るべきなのだ。自分が原発事故を起こしたのだ、という観点が心から消えない、それが人間にできるせめてもの誠実さだ。私はそこに、この著者の最も信頼できる点を見出した。少なくとも、私と話をして違和感がないだろうということについては、確証を得た、と言ってよいだろう。
 薄い本であるが、人間の精神の根柢に問いかける。偉そうなことを言わない著者は、その失敗やある意味での悔い改めにより、中身を重く、濃いものにした。神の前で人間に何ができるか、何をしてはならないか、そんな聖書的問いかけをともに文章を読み進むならば、きっと精神に満足を与える読書のひとときと、生き方の変革が、訪れることだろう。この心が伝わる人間でありたいものだとつくづく思った。




Takapan
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