『自分のなかに歴史をよむ』
阿部謹也
ちくまプリマーブックス15
\1068+
1988.3.
読む本の中で、これはよい、と紹介された本に手を伸ばしてしまうから、本が雪だるま式に増えてゆく。それは、よい本に出会う確率を上げることでもある。自分が好む書き手が好んだ本を、そう思う可能性は当然高まるであろう。
全く知らない人だった。だが、これは恐ろしい本だった。青少年向けに易しく書かれたシリーズの一冊であった。21世紀には、これは「ちくまプリマー新書」と名を変えて、サイズも通常の新書のサイズになったが、本書は少し幅が広い。価格も当時としては高く、物価高に喘ぐ2025年にこの価格でも普通に感じたかもしれない。
それはともかく、これは驚くべき本であった。
著者は、西洋史学者である。本書は、青少年に寄り添う形で、中学時代にカトリックの修道生活を送ったことも詳しく書かれている。
初めは、一橋大学で上原専禄教授に教えられたところから。学問に対する姿勢を学んだことは、私にとってもよい刺激であった。ゼミや発表会でのリアルな様子の描写が、学問の素晴らしさへと導く案内となっている。
ポイントは、「解る」ということに触れたp17辺りからである。このことが、この後の歴史に対する実際的な叙述のモチーフとなっている。「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」と教えられたのである。
これを示してから、中学生のときの修道生活の回想に戻る。敗戦直後に家庭の事情でそうなったというのだが、そこで西欧文化に対する憧れと問題意識を得たのである。非常に具体的な思い出を通して、学問への気持ちが定まっていった様子が、生き生きと描かれている。そのとき、多少はキリスト教や聖書に関する知識や理解があれば、言っていることがさらに親しく伝わってくるだろうとは思うが、そうでなくても、一般的な知識でたぶん十分である。多くの漢字にはふりがなが振ってあるので、小学生でも読むことは可能である。行き届いた本である。
西欧文化がそこにあった。だが、日本文化の立場から素直に見ると、異様な点が心に残る。普通に言われている理解で、本当によいのだろうか。実のところ、西欧人だからこそ、当たり前のように感じているその文化理解に、何か見落としがあるのではないのだろうか。素直な眼で、素直な心で、「問い」を発することは、実は簡単なことではない。当然視しているところには「問い」は起こらないからだ。哲学とは、答えを出すことではなく、問うことだ、というのが、私が大学で学んだ最初のことだった。私から見るに、著者は、その「問い」の天才である。それを、読む中でひしひしと感じるのだった。
著者の問題意識は、はっきりしている。「ヨーロッパの何がどのように明らかになったときに、私たちはヨーロッパを理解したことになるのかという問題」である。専門は、中世ドイツ・ヨーロッパの民衆史であるわけだが、ここから「ドイツ騎士修道会」に絞って、徹底的に問い尽くす。簡単なことで「なるほどね」などと自己満足の納得をしない。何故、どうして、何が基にあるのか、と問い続ける姿勢が、本書に再現されている。しかも、「自分の意識や存在そのものが歴史のなかにあるということ」を把握し、分析した人が稀であることを知り、追究することは、先に挙げた本書のモチーフそのものでもある。
そう。私たちの当たり前の生活や振る舞いのなかには、「数えきれないほどの過去がしのびこんでいる」のである。幼いころの体験が、体の中に深く刻み込まれている。「現在は過去によって規定され、現在の足もとには過去が流れこんでいる」というのだ。このとき、「時間意識は、人間が周囲の事物とかかわるかかわり方のなかで生まれてくる」ことが見えてくる。そこでまとめるに、「人は過去に規定され、未来への意志によって規定されながら現在を生きている」ということになるのである。
病を患ったことから、生きている間に楽しめというように、ドイツに留学することになった話がやがて始まる。そこで、誰も気づかなかったような古文書の叙述にも触れ、誰も気づかなかったような洞察へと導かれる。もちろん、それを読むために大変な苦労を強いられる。だがその中から、ハーメルンの笛吹き男の伝説の歴史的意義について発見をしてゆくようになる。
このとき、「日本とヨーロッパの歴史の違いの根源には、人間と人間の関係の結び方の違いがあるらしいということが解ってきた」のだとということを明らかにしている。このことは、以後重要な論点となる。もちろん、そこには「モノ」のやりとりということが介在するわけで、非常に現実的な、そして日常的な、人間の現在の生活の中に、過去が見えてくることにもなっている。
笛吹き男の物語の中に、著者は「差別された人びと」を見いだす。ヨーロッパにおける差別の問題がここから問われ、例えばその筆頭に「死刑執行人」が挙げられている。だが、14世紀以前には、処刑は高位聖職者や身分の高い人が執行していたという。それが、賤しい人間のする仕事とされていった。そこには、「人と人との関係」の変化があったのだ、と著者は指摘する。このようなことが解ったときに、その社会が解ったことになるのだ、と著者は、問いのひとつの解凍をここで明らかにしている。
かつての人々のことが解らない。それは、共通なものを感じられないからである。せめて、違うのは何かに気づくならば、理解の扉が開き始める。中世の人々と私たちとでは、時間の捉え方、空間認識が異なっている。均一な時間、聖俗の差のない空間、そのような意識では、かつての人々の理解は進まない。私たちの「世界」とは、異なった「世界」を彼らは生きていたのである。
そのとき、「大宇宙」と「小宇宙」という捉え方が重要になる。そうだ、近代哲学に入り込もうとする辺りで、この観点は私も学んだ。しかし、占星術ひとつとっても、小宇宙である人間が大宇宙の影響を受けているという考え方があるからこそ、成立していたはずだった。しかしこれに気づくと、賤民として差別されることになる人びとは、「大宇宙を相手にして仕事をする異能力者として、畏怖される存在だった」ということが見えてくる。12世紀以降、ヨーロッパに新しい文明が形成されたために、その差別が発生してゆく。本書はここへと論点を深めてゆく。
それは、キリスト教の滲透がもたらした。近代科学への発端である。このとき、新しい人間関係が生まれた。合理的な考え方は、宗教的に社会が形成されてゆく中で整ってゆく。人々の社会を決めてゆくことになるのである。著者はこれを、かつての「文化」から、「文明」へと呼び名を替えて理解を促す。
たとえば芸術作品の中にも、「それを生み出さざるをえなかった人間と人間の関係を読み取る」ことがあってこそ、社会と文化を十分に理解することになるのである、という。この後、「文明」の中で、現在へ続く歴史が営まれるようになってゆく。
しかし、文明批判をただしたいのではない。著者は言う。「人間と人間の関係のなかで、もっとも幸せな状態は、モノを媒介とする関係と、目にみえない絆によって結ばれた関係とが、たがいに相覆いあう状態だと私は思っています。」プロテスタンティズムも、ここから説明してゆくことになる。
二つの宇宙が、キリスト教会によって一元化されてゆく。しかし一般人の中では、依然として二つの宇宙がある。その間をとりもつ人々が、かつては尊敬さえされていたのであったが、一元化の中で、賤しい者へと変えられてゆく。そこに差別が生まれる基盤が成立する。宇宙を媒介する存在者は、否定されてしまうからである。このことには、それまで誰も気づいていなかったのだ。
キリスト教をよく知るからこそ、言えることがある。著者は指摘する。「キリスト教の人間中心主義は、ヨーロッパ文明を世界に普及させてゆくエネルギーになりましたが、同時に人間と動植物との共存という麺で、生態学的な矛盾を生み出す原点にもなっています。」私の引用ではこの結びつきがうまく説明できないが、本書は実に多面的に、このことを告げるようになる。また、このとき自然の対象化があってこそ自己意識が可能になること、だから中世においては自己意識という点では近現代とは異なるのだ、という重要な指摘もなされている点を、見逃すわけにはゆかない。
最後に、著者の親しんでいた「音楽」の世界にも、このような分析を適用する。かつて世界は音に満ちていた。世界に調和を与える音楽があって、音楽は世界の原理である。近代の交響曲が、かつての音楽とは異なるという見方を説明するのは、本書が辿ってきた考察に基づくものであることで、本書は美しくまとめられてゆく。交響曲は、二つの宇宙を一元化するものだったのである。これを「違和感」として捉えることが、実は大切であるのだ、というのである。他の文化を理解する努力は、こうして続いてゆくものなのである。

た
か
ぱ
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ワ
イ
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