本

『いのちの中にある地球』

ホンとの本

『いのちの中にある地球』
デヴィッド・スズキ
辻信一訳
NHK出版
\1365
2010.9.

 副題に「最終講義」とある。しかも「持続可能な未来のために」と付されている。
 晩年を迎えたと自覚する著者だからこその最終講義ということではあるが、その他こうしたタイトルによって、ほんの内容は実は正確に告げられていることになる。対象は地球。いわゆる自然である。環境保護運動ということである。
 だが、それは単に「環境を保護しましょう」などというふれこみで終わるものではない。気軽に「エコ」などと口にして、それをファッションにまでしてしまうような、ほとんど冒涜としか言いようのない行為とは、質を異にするのだ。
 地球をいとおしむように撫でる。そんな情景が目に浮かぶ。傷ついた友を支えようとする勇気が感じられる。だが、分を超えているわけではない。私たちは神ではないのだ。私たちもまた、この自然の一部であるという意識を見失うことはない。それなのに、暴力を身につけた人間という種族は、この地球全体を取り返しのつかない状態、すなわち破壊し尽くされた状態へと地球を追い込もうとしている。
 この罪をはっきりさせる働きも、この本には確かにある。
 しかし、罪をなすりつけるためではない。つねに自分の中にある怒りのようなものが、穏やかな表情の中で映し出されていくような感覚がそこにあるのである。
 とくにここには、経済に対する、衝撃的でもあるが実に適切な扱い方が顕著である。私たちは経済を神としている、というのである。これが真理のすべてであるかのようにさえ思っている現代人。その上で、古代人の思想を迷信だとか非科学的だとか言って見下している。だが、経済を神として拝んでいる私たち現代人も、本質的には迷信めいたものと変わりがないのである。さらには自分たちこそ正義だと信じ込んでいる分、よけい始末に負えない。
 では、こうするとよいですよ。ほんの少しの行動をするとよい、と説き明かすと、人々は理性的であると思われたいのか、それは実に理想的ですばらしい、と絶賛する。しかし、それではその理想に近づくために実行を始めましょう、と言うと、とたんにその絶賛者は尻込みする。経済の損失があるので実行はできない、というのである。
 こうなると、経済を神として崇めるのはもちろんだが、背後で経済という神が操っているという見方も可能になるかもしれない。
 本の本文の最後は、このような文で閉じられている。「必要なのは夢を見る力、そしてそれを実現する意志だけです」
 ともすればありがちな悲観論に陥らず、最後まで希望を輝かせて言葉を閉じる。この勇気に共感したい。もちろん決して楽観ができるというわけではないし、むしろその反対ではあるはずなのだが、ここの希望を見いだそうと提案するのである。
 自分というものが、自然と対立する別物であるかのように描いてきた近代思想に、多くの人はどっぷりと浸かっているようだ。こうなると日本人の中にはまた、日本では自然にとけこむ思想があり、西洋よりも優れている、と言いたくなる病気の人もいるわけだが、それが誤った優越感にすぎないことが分かる。多神教を誇っていた彼らも今では、経済という一神教に染まっているわけなのだから。




Takapan
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