本

『祈り』

ホンとの本

『祈り』
越前喜六編著
教友社
\1200+
2014.12.

 カトリックの立場からの本である。プロテスタント教会で生活していると、それが当たり前のように思い、もはやそれしかないというほどにまで染められていくことが予想されるため、時に新たな風を受けて、異なる立場や考え方にも触れたいという思いから、今回カトリック側の「祈り」の考えを学ぼうと考えた。
 これはイエズス会の、復興200年のための記念誌であるという。その経緯は本書の解説に任せるが、イエズス会といえば、日本にキリスト教を伝えたということで、中学生の歴史の本にも必須事項として出てくる団体である。そのバリバリの立場からの祈りについての教えは、新鮮であった。
 イエズス会士が幾人か、祈りをテーマとしての様々な角度からの指摘をしてくれる。一人ひとりがユニークな視点で祈りについて語ってくれるのがうれしい。
 中には、非常に神秘主義に染まったようなものもあった。カトリックの懐の広さのようなものを改めて感じたものである。信仰を純粋化して排除に急いだ、バビロン捕囚から復帰したユダヤ人がやがてファリサイ派を築き、その末がイエスにより徹底的に批判されたように、もしかすると、純粋を主張するプロテスタントのやり方には、何かいびつなものが含まれているのではないか、と思わせるような世界がそこにあった。
 最後には、神道や禅、そしてプロテスタントの側からの発言もひとつずつ載せられている。これもまた、懐の広さのようなものであるかもしれない。ただ、確かにこうして様々な角度から見てきても、私自身になじむのは、最後のプロテスタント神学者の発言であった。カトリックの中の敬虔さやね修道会としてのストイックな方法に異議を唱えるつもりは毛頭ないのだが、やはりどこか日常生活とは違う空気を感じるのは確かであった。いや、世俗に染まることがまずいのだ、と言われればそれもそうであろう。人が、正しいかどうかを決めることなど、できないし、してはならないのだ。
 いざあるテーマを以て、それについての意見を集める。こうした試みはいい。何かしら権威に偏ったものに引きずられることなく、多様な声を並べて伺い、必要なことを得ていくことができるからだ。善悪や真偽を競うものではない。ふだん考えていることは人により違う。また、ある立場を代表するような責任者の考えの提示というものもある。プロテスタント側からも、大学からそうした試みの出版がよくある。可能な限り、そうした場を共有して、そこから何を選んでいくか、実践していくか、改めて一般の信徒が考えていく機会とするとよいのだ。同じ人の説教ばかり聞いていて、真実はそこにしかないものというふうにいつの間にかなっていく危険性もある私たちである。しかしまた、様々な意見にぐらつかされてもならない。キリストなる岩に立つものは、決して揺るがないはずである。その上で、人間的な頑固さからは解放されたい。一見矛盾したようなこの営みを、良い方向でまとめていくような試みの一つである、そうした企画の本であったのではないか。
 また、何よりもまた、祈らなければならない。それは、私たちがイメージでもつ「祈り」とはずいぶん違ったものとして可能なものである。この本は、そうした点でも、よいヒントを与えてくれる。本の価格に比して、内容も量もずっと多いかもしれなかった。




Takapan
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