『日常語の意味変化辞典』
堀井令以知編
東京堂出版
\2,500
2003.6
「流れに棹さす」という言葉が誤用されているなどという国語世論調査が、この本が出たころに発表された。この本では「環境に順応して順調に物事を進める」という説明から始まっている。『太平記』の出典を引いて、誤用についても触れている。
魅力的な本である。日常語の意味がどう変化しているかについて説明してある。この語の意味はこれだ、で終わらない。意味がどう変わったか、なぜ変わるのか、という編者の眼差しが、全体に貫かれている。収録語数は必ずしも多くないが、関心をもつ言葉はきっと載っている。なるほど、と思わせる語源などの一般書は最近よく出ており、売れているが、この本にはそうした受け狙いのものはない。学術的に通用するものだからこそ、信頼がおけるという面がある。
ここに「時」という言葉がある。古い語の一つであるという。この本によると、日本語として「時」は、時間ではなくむしろ時点を表す。中国から「節」という語が入ってくるまでは、「時」は晴れの日を意味していた。普通の日は「間」という。「時々」は今では軽く使われるが、いつもと違うものを食べる特別の日のことだった。何かをするに相応しい時を「しお」「潮時」と呼ぶが、英語のtide,timeが同じ語源であるのと同様で面白い――そう記してある。
原文はもう少し詳しい。ただ読んでいても興味深い内容である。必ずしも和語とは限らず、平安期に使われていても、漢語というものはもちろんある。が、それにしても、古い歴史をもつ言葉たちの履歴が感じられて、心地よい。温故知新という言葉があるが、私たちは古いよい言葉を失ってよいはずがないと思う。第一、今まで使ったことがなく、初めて意味が解るということからすると、古い言葉も最新の言葉も同じ条件である。むしろ古い歴史ある言葉にもっと目を開きたいものだ。それは、古いからよいのではなく、私たちの生活の基盤を支えているものに関与するためである。
考えてもみよ。天皇が神道であり日本は神の国だという思想こそが日本本来のものだと言い張るグループがあるが、天皇は歴史上、仏教輸入後は仏教の流れに与していた。大嘗祭のような根幹的慣習も、仏教の思想のゆえに始まったという指摘もあるようだ。なるほど、記紀神話が神道だというのならそれは大元だが、それなら天皇の歴史の大部分は、本来の神道から外れてばかりいた歴史であったことになる。それでもルーツこそ尊いというのであれば、日本のルーツから輸入物の米は取り去らなければならなくなり、へたをすると日本語そのものの存在が危ぶまれるかもしれない。
とにかく、古いものが新鮮に思えることは悪いことではないのだから、せめてそれらの由来や成り行きに注目することで、私たちは自分の足元のことを少し考える視点をもつことができるのではないか。
思いはあちこち走り及んでしまった。堅苦しくなく、ただどこから読んでも面白い本としてお勧めする次第である。