本

『今、礼拝を考える』

ホンとの本

『今、礼拝を考える』
越川弘英
キリスト新聞社
\1680
2004.5.

 クリスチャンとして当たり前に礼拝に出て、週に一度それを過ごして行く。では、その意味がどれくらい分かっているかというと、心許ない。自分で分かっていたつもりのことが、次々と突き動かされていく。そんな経験を与える本であるかもしれない。
 そう。それは私のことである。聖書は確かに私の中で、私流にではあるが、読んでいるかもしれない。だが、礼拝という儀式はどうか。プロテスタント教会として、宗教改革における、儀式への反発がないとは言えない。聖書のみだ、と言い張る中で、果たして自分はどう生きているか、何をしているか、それを問われることすら意識的に避けていたかもしれない。
 実のところ、この儀式というものには、深い実践が隠されていたのである。そして、ヤコブが行いの重要さを語ったときに、それはもちろん貧しい人を助けるなどの意味がこめられていたのではあるが、決して現代社会でいう善行や倫理というもので考えるべき「行い」に限られるものではない。むしろ、礼拝行為というところに一つの大きな意味がこめられているのではないかと、とすら思える。礼拝という行為、つまり行いにおいて、私は本当に自分を献げているのかどうか。そのようなひとときとして、礼拝を過ごしていたのかどうか。問われると、ずきずきと傷む心がここにある。
 プロテスタント教会であろうが、礼拝の行為がいい加減であっていいわけがない。それはたんに、口先だけで愛することに過ぎない。本当は、行いと真実をもって神を愛するのでなければならないはずである。
 そのように、礼拝について問い直す機会が教会で与えられたときに、私は自分での学びのために、この本を選んだ。日本において今、礼拝とは何かついて語らせるならば欠かせない人物の手による、易しい礼拝書である。いや、易しいというのは語弊がある。実に霊的に深いのであるから、生半可な気持ちで繙いてはついていけない。信仰が問い直され、心がえぐり探られる。そんな刃すら隠し持っている本であると言える。
 サブタイトルは「ドラマ、リタジー、共同体」とある。どれも考えを深めていけば深まっていくのであるが、聞き慣れない言葉がひとつ見える。「リタジー」である。これは、礼拝を意味する多くの語の中のひとつであり、「民のわざ」「国民の公務」とも呼べる普通のギリシア語から、宗教的祭儀への奉仕を指すものとして利用され、礼拝に加わる働き、時に務めとしてそれは把握された。キリスト者にとっての「公務」としての意味がこめられている。この捉え方から礼拝のプログラムのひとつひとつを見ると、そこで何をしなければならないか、何を思っていなければならないのか、悉く見えてくるというのである。
 こうして招詞から祈り、賛美歌、聖書朗読からもちろん説教、献金ならぬ奉献、聖餐に祝福といった流れのもつ意義が次々と明らかにされていく。そして最後に、神が主体としての結婚式と葬式について語られて、本は幕を閉じるのである。
 実にいい本であった。教えられた。そして、自分自身を改めることに役立った。目が開かれることも度々であった。どの内容も、神学的に難しいことを言おうとなどしていない。聖書の言葉を矢継ぎ早に引用して、さもこれが真実であるかのように見せかけるようなトリックもそこにはなかった。ただひたすらに、信仰者の魂に分け入ってくるような、神の力をこの本の言葉の随所に感じた。
 その説明のすべてをそのまま受け容れるかどうかはまた別かもしれない。また、それでよいと思う。しかし十分分け入ってくるその言葉を心に迎えて、そこから内なる神に問い直して自分の問題として取り扱っていくことにおいては、全く以て他人事ではなかった。魂のためにも、すばらしい本であった。




Takapan
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