本

『いま、ここに生きる』

ホンとの本

『いま、ここに生きる』
ヘンリ・ナーウェン
大田和功一訳
あめんどう
\1800+
1997.9.

 キリスト教世界では有名な方であるが、私はあまり読み込んだことがなかった。いや、一冊を詳しく読んだのだが、その本からは決定的な影響を受けた。
 しばらくぶりに、また新たなものを読んでみた。
 カトリックの方であるが、プロテスタントにも愛読者は多い。それは、教義的なものをとやかく言うことはなく、ただ神と自分との関係の中で、どう平和を体験していくかの思いを綴っていく。自然な口調であり、耳で聞いてもすんなり分かる、優しい言葉である。神学用語を並べるようなこともない。
 サブタイトルに「生活の中の霊性」とある。本書は11章から成、それぞれ独立しているから、読みたいところから読んでもよいのだが、やはりそれなりに編集がなされているわけであって、最初から順に読むのがよいのではないかと思う。「現在に生きる」から始まる。ここに、本書の題の「いま、ここに」という点が触れられている。ただし、それを論証しようとか押しつけようとかいう感じはしない。意識しなければ気づかないほどに、さりげなくあるくらいで、この章の中の7つの節のひとつに見出しとして付けられているだけである。これは私の思考回路と一致する。実によく分かる。
 続いて「喜び」「苦しみ」といった感情が章の題となり、「回心」が上から及ぶことを適切に受け容れてもらった読者には、次の「訓練」が生き、「霊的生活」から「祈り」へと進む。
 その後、ナーウェンの真骨頂だと私は実は思っているのだが、「憐れみ」へとつながる。これが、人を可哀相に思うとか同情するとかいうニュアンスで捉えられそうになるところが、日本語の訳の哀しみである。問題はたぶんここなのである。それは、「共に苦しみを覚える」ということなのだ。ヨーロッパ語の響きからすると、これが自然な理解である。日本語のこの言葉と、伝える空気が違うように思われてならない。「憐れみ」は、手話では、教会で「悲しい・恵み」のようにする。悲しみを心に抱くような様子である。ある意味でこのナーウェンの意味を感じさせるものであるが、「共に・苦しむ」は、手話で表すならば、少し違うだろう。私は、ナーウェンの「憐れみ」の捉え方に心震わされたことがある。それは私の召命でもあった。私にかつて決定的に欠けていたものがそれである。私には、愛がなかった。だが、欠けていたものはもちろん愛だけではなかった。また、愛が欠けていた原理だとすることも、どうやらできなかった。この「共に悲しむ」ことが、できなかったのである。いま、それができるかどうか、それは自分では決められない。ただ、かつて自分にそれがなかった、という認識ができる分くらいは、いまその思いが心に具わっている部分があると言えるだろうとは考えている。
 ナーウェンの章は「家族」を通り、「人間関係」に注目し、実生活が霊的なものに染まっていくような展開となっている。最後の章が「私たちは何者か」ときたのがすごい。ここまでの十の提言をまとめ、神と生きる生活の極意を宣言しているようなものなのである。これをここで説明していくことは、できないわけではないが、する必要はないと思う。読者がこの本の最初からの著者の導きに従って旅し、最後にこの段階に来て見える景色が、それまでの自分とずいぶん違ってしまった、ということを自分で感じたらよいのではないかと思う。
 確かに、生活の中の霊性を育む。気づかせてくれる。クリスチャンとして、イエスと出会い、イエスに救われた喜びを経験したことのある人は、実に清々しく読書が流れて行く。心の中の汚れた部分が削り取られて行くような感覚をも抱くことだろう。逆に、好き嫌いは別として、ここにある霊想のどれもが魂に聞こえてこないという場合、神の救いをその人が経ているようには私は思えない。救いの喜びを経験し、地上にて旅人・寄留者として歩んでいる人には、必ず作用する呼びかけが、きっとある。願わくはそれが聖書そのものから響いてくると一番よいのだろうが、このような優れた思索と霊想の言葉の本からは、たくさんの刺激があるものなのだ。何度でも開いていきたいと思わされた本であった




Takapan
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