『今を生きるための現代詩』
渡邊十絲子
講談社現代新書2209
\760+
2013.5.
現代詩は難しい。そういうイメージがあるだろう。それに向き合うためのコツを教えてくれる。著者自身がそうした詩を書いているのだと思う。が、この人の詩集が、私の使う通販では出回っていない。その辺りの鑑賞については、また別の機会を考えよう。
現代詩を理解するにはどうすればよいか。そのレクチャーを期待すると、落胆する。だが、それ以上に、現代詩を身近に感ずる経験をすることは確かである。たぶん、そうしたレクチャーとは世界が違う。まともに、現代詩の海に飛び込んでゆくことをさせてくれるし、そのためのインストラクターがここにいた、とでも言おうか。
そもそも「解釈」ということを一旦忘れてしまおう、とくるのだ。もっと詩を楽しもうとする誘いなのである。
のっけから、谷川俊太郎の詩を批判する。否、谷川俊太郎に文句を言っているのではない。その「生きる」という詩を、中学生の教科書に載せて問題にしようなどという手合いを、徹底的に批判するのだ。
それは、著者自身の体験である。この詩をここで引用はできないが、この詩を理解するには、「おとなの常識」が要求されていた、というのである。しかし、国語の授業は、それを皆が知っているという前提で、読み取らせようとしている、と指摘するのだ。リアリティーを感じさせないままに、鑑賞させ、答えさせようとしているのが、けしからんというわけだ。いかにも易しい言葉が使われている。だが、それを味わうためには、様々な人生経験が必要だった、というのだ。
教科書の狙いは、詩を詩として扱っていない。これは、詩を作る側の詩人の眼差しからして、確かなものと思われる。立派な詩ではないが、わずかでも心得のある私には、このことは分かる気がする。
こうして、詩を解釈しましょうなどという夢のような嘘事から、著者は読者を切り離すことに成功すると、いざ現代詩の波の中に、読者を誘う。ここからが、本領発揮である。分からないままに、アプローチしてゆく。読み解くなどということはしないし、その詩の意味を説明しようなどという無謀なことはしない。ただ、そういう詩が自分にとって限りなく面白かった体験を基に、その詩の言葉に触発された自分のスピリットのようなもの、あるいは触発されて見え始めた景色のようなものを、次々と言葉にして本の頁を埋めてゆく。
黒田喜夫、入沢康夫、安東次男、川田綾音、そして井坂洋子といった詩人の死を取り上げて、それの解釈ではなく、それの感想めいたもの、あるいは、それを肴に宴会をしている者の戯言のようなものを、この後載せている。どうやら、別の機会に記した書評やコラムの内容を、本書のために揃えてきたようなのである。
特に安東次男の詩は、強烈だった。まるで脈絡のない言葉が次々と繰り出してきて、読み解こうとする理性を破壊する。だが、よく耳を澄ませれば、そこからひとつの糸がつながってゆく。と思いきや、それさえも裏切って、もやのような中に読者を落とし込む。それでも、それでも、それは分裂症の幻覚ではない、と確かに言える何かを有している。これを、著者は体験させてくれるのである。
最後に著者は、言葉を選びながら、男の詩と女の詩とが何か違う、と呟く。性差を決めつける意図がないことを丁寧に断っているから、その気持ちは汲もう。その上で、クリアな詩と、何か曖昧な詩とが、異なるのだ、と口走る。ここをどう感覚するか、それ自体がまた「詩」であるのかもしれない。理性と感情、などという言い方も違う。硬さと柔らかさ、と言ってしまえるものでもない。なんとか言葉にしてみよう、ともがく男と、そのままでいいじゃないか、と構える女、みたいな感じにも思える。
著者が、よい解説をしているかどうか、それは分からない。コツを教えた、とも思えない。勝手に自分が膨らませた妄想をずっと呟いていただけなのかもしれない。ただ、著者は、確かに読者と共にいてくれた。傍にいて、さあこちらにおいでよ、と手招きし、自分は楽しそうに喋り続けた。本当に、インストラクターとして、楽しみながらそこにいた。
だから、私は現代詩と、友だちになれるような気がした。今度、何か触れてみよう、という勇気が与えられた。今を生きることができるような気がした。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド