本

『豊かな説教へ想像力の働き』

ホンとの本

『豊かな説教へ想像力の働き』
T.H.トロウガー
越川弘英訳
日本基督教団出版局
\2500+
2001.7.

 説教について読み解いていく中で、しばしば推薦書として出てくるとなると、読んでみたくなるのが私である。日本語があると聞けば、探してみる。古書を探すのに、ネットというのは実に重宝だ。こういうのを、古本屋を巡って探していたあの時代はなんだったんだろうと思う。
 さて、本書のテーマは「想像力」である。説教論はいろいろあるが、想像力に絞った考察は珍しい。それだけで一冊もつのかどうか、不思議なところである。最初に、コマーシャルの具体的な風景が描かれ、もちろん私はアメリカのそのようなCMは知らないが、いかにもありそうなものなので分かるのは分かる。それを読者が思い描けるように告げて、そこに潜む意味や、私たちの想像力がそれによってどのように冒されているのか、またそこからどうしていくとよいのか、そもそも何が危機なのか、説教において何が問題なのか、そんなところから読者に問題意識を持たせるように仕向ける。そう、キリスト教会の説教なるものが、想像しづらい退屈なものに成り下がっているのである。
 私はこれを想像してみるに、日本の仏式の葬式を描いてみた。僧侶がずっと経を称えている。何を言っているか分からない。誰も、その意味を解しない。そもそも、聞いてさえいない。ただのBGMの役割しか果たしていない。教会の説教も、そのようなものとしてしか価値づけられていないのではないだろうか。ちょうど日本で仏教が空気のようにそこかしこにあるのと同様に、アメリカではキリスト教がそこかしこにあり、習俗にも隠れ、精神文化を支配している。あたりまえのようにそこにある以上、そのあたりまえのことをもったいぶって語るというのは、面白く思えるはずがないし、「聴く」どころか「聞く」「聞こえる」すら怪しいとなると、説教者も参ってしまう。精神的防衛を果たすために、もう説教そのものに力を入れることがなくなり、こうして悪循環が起こっていくということも当然となる。
 いや、説教は神の言葉ではなかったのか。命を与えるものではなかったのか。この事態を改善するためには何が必要であるのか。
 そこに、説教者としての想像力を、著者は強く提案する。ある説教を書く。先ずまともに説教らしく書く。実例でそれが載せられていて、読むことができる。決して堅苦しい説教ではなく、分かりやすく説明してあるし、感動的ですらある。私から見れば申し分ないような説教原稿である。しかし、著者はもうひとつ原稿を用意する。それは、聖書のことがまるで出てこないし、終わりに至るまで、ただ物語を読んでいるだけではないかと思われるような文章である。但し、それは、聖書嫌いの人をも引き込む魅力があることは確かである。そして、その情景を想像せざるをえない仕組みになっている。聞く者はその風景を頭に描く。そしていつの間にか、用意された結末に導かれ、それを辿ることが、キリストの言葉の何かしらを体験するようになっているのだった。
 結局著者は、後者を実際に使ってみたという。説教に反感をもつような人をも耳を傾けさせたのである。
 こうした事例を交えながらも、一つひとつの提案に、神学的背景を持ち合わせているというのが、著者のさすがと言えるところである。ただの思いつきや、ウケ狙いでやっているわけではない。神学的にそれはどういう意味をもつのか、自分の試みる説教への手法に、根拠というか、背景を照合しようとするのである。
 聞くこととしての説教。声色や話し方も影響を大きく与える。文字面だけが説教を決めるのではない。聞く者に想像させる力をもつものは、文字に限らぬ、その場をつくるものすべてである。
 現代の精神的状況はどうであろうか。時代の空気はどうなっているのであろうか。その中で、説教は依然として続けられる。想像力が必要だ。しかし、その想像力ですら、神が与えるものであるにほかならない。説教する者は忍耐が必要かもしれないが、自身神から想像力を与えられ、霊に動かされつつ、真に生きている説教を求めていくことで、自らも開かれ、またその語る説教へ、人々も開かれていくことであろう。想像力はどうなっているか、会衆を見つめるときにそれを心に置いて語ることで、きっと神の霊の助けがその場を支配することであろう。生ける神が、人を生かすに違いない。
 私もまた、そのように希望する者である。




Takapan
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