本

『私の生きた証はどこにあるのか』

ホンとの本

『私の生きた証はどこにあるのか』
H.S.クシュナー
松宮克昌訳
岩波現代文庫・社会304
\1140+
2017.2.

 大人のための人生論。副題にそう記されている。『なぜ私だけが苦しむのか』を先に読んだ私は、新しいクシュナーの著作にも関心をもった。先の作品は、我が子を失う中でヨブ記を自らの問題として背負い、神の声を受け取るような試みであったが、今回は、コヘレト書からの声を聞くものとなっている。
 自分は何のために生きているのか。それは、若者もまた思うであろうが、ここでは人生を渡ってきて晩年が見えてくるころに誰しもが思う課題、これまで自分がしてきたことは何だったのか、どんな意味があったのか、という不安に対する処方箋を提供するものとなっている。
 そのために、著者はコヘレト書という、人生論めいた、だがきっぱり神のことばらしくない書を選んだ。そこにあるのは、贅沢を極めた者が、空しい思いに襲われた中で呟くような言葉ばかりである。取扱いに注意しなければならない。聖書にある言葉だからと、その一部だけを切り取って、これは神のことばだと利用すると、そこは実は人間のただの迷いの言葉であるかもしれないわけだ。切り取ることには注意を要する。コンテクストの理解が必要であるし、全体としてどういうことを言おうとしているのか、話の流れはどうか、捉えなければならない。その上で、自分に対して向けられた言葉というものを感じ取るとよいのだ。
 何が人を幸せに導くだろう。どうかすると、聖書をベースに置くと、聖書にはこう書いてある、のような教条的な説明や、へたをすると押しつけが並ぶことになるが、本書は違う。読者と等身大のところで、横に並んだ友がぼそぼそ語るかのように、語りかけてくる。まずは、「人生でやり残したことはなかったか?」と尋ね、続いてコヘレト書が実は危険であることを明かした後、「自分の利益だけを追い求める人間の孤独」を知らせ、「あまりにもひどく傷つけられて感じることができないとき」にどうするとよいか、思いを述べる。
 その知恵をここで紹介するのは楽しみを殺ぐことだろうからやらないが、本書は終わりの方で、「私が死を恐れない理由」を公表する。だがそれは、本書をそこまで順に読む、つまり著者の語りにずっと耳を傾けてきたからこそのことであり、突然最後だけ読んでもよく意味が分からないことだろう。
 但し、それで本が終わるわけではなく、最後に付加された部分があり、実のところそこを味わってこそ、死を恐れない理由にしても、そして本書のタイトルが示す問いへの答えにしても、ようやく明かされるような思いがする。そこはなかなか効果的なのだが、しみじみと感じられるということになるのではないかと思う。
 そういうわけなので、あまり内容をここで端折る気はしない。読者が、順に聞いて辿るのが一番よいと思うのだ。
 著者は、キリスト教徒ではない。ユダヤ教の教師、つまりラビである。旧約聖書について何も知らない人も、本書を読んで悪いことはないが、何が言いたいのか、伝わらない部分が多いことが予想される。その意味で、日本においてこの本を味わえるのは、基本的にクリスチャンか、聖書によく親しんでいる人ということになるであろう。そこが惜しいかもしれない。内容は、決して聖書の押しつけではなく、人生の機微に至るまで、なかなかどうして、はっと気づかされることをたくさん話しているのだが、それを受け取るフィールドがなければ、魅力は半減されてしまうかもしれないのだ。
 訳者あとがきに書かれてあるのだが、せっかくの訳書も、あちこちの出版社から断られ続けてきたものだという。今の時代には合わない、と。合わないとすれば、本書が聖書文化を背景にしていることと、決して学術的でなくエッセイとして読めるにも拘わらず、幅広い教養か知識をある程度前提としていることが影響するのであろうか。
 少なくとも、コヘレト書だと、日本人にも取りかかりやすいとよく言われている故に、もっと手に取る人がいてもよいと思うし、人生の風景を変える力をもっているのではないかと思うのだが、そのためにも、表紙にその「コヘレト書」がテーマであることか、そこから引用した、たとえば「空の空」のような言葉でも目立つようにしていればよかったのに、という気がした。




Takapan
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