本

『生きるということ』

ホンとの本

『生きるということ』
エーリッヒ・フロム
佐野哲郎訳
紀伊國屋書店
\1359+
1977.7.

 先に『自由への逃走』でフロムを初めて直に読んだという告白をしたが、こうなるともう少し味わってみたいという思いがするのも人情。評判のよい本書を選んでみた。
 1976年であるから、上掲書よりもずっと後になる。ここでは戦後発展した経済情況を踏まえ、私たちがさも当然のことのようにしていることの中に、実はずいぶんと流され、動かされてきた価値観について指摘がなされている。
 その意味では、本書の主張は実に単純なところに還元できる。それは「持つこと」と「あること」との違いが強調され、「持つこと」にいつの間にか傾いてきた現代人の価値観を、本来の「あること」に立ち帰ること、あるいは少なくともそれを意識して見つめるところに置かなければならない、ということであろうか。
 それは英語の語法によっても説明されるので、翻訳された中で味わうのがどのようにうまくいっているか、私は判断が付かないのだが、訳者はなかなかうまくそれを成し遂げているのではないかと思う。つまり、英語だと「have」を多用するが、その感覚が、自分という近代人の主体観を軸にして、あらゆるものを自分が「持つ」イメージで捉え、また「持とう」としていく経済的な原理が、生活のあるいは生き方のあらゆる基準になってしまっている危機に気づかせるのである。
 このことを、当然心理学的な背景を巧みに用いながらも、あらゆる側面から立証し、その上でかのテーゼを読者に訴えようとしている。日常経験におけるそれらの語法に始まるが、私にとっては、マイスター・エックハルトの紹介が興味深かった。中世の神秘主義的な香りのする説教者であり、キリスト教の主軸からすると少し外れるかもしれないと見られる、だが文献的には非常に豊かでまた思想家としても尊崇されている一人である。このため改めてエックハルトに関心をもった私は、その説教集を買い求めたというわけである。
 フロムは、分析のために、実に多くの哲学者や思想家を援用する。フロイトの説も取り入れるし、マルクスの中にも優れた視点があることを挙げる。これらは当時の時代性にも関与するものと思われるが、歴史上の多くの思想を上手に関わらせて論じていく技はさすがというところであろうか。
 こうして、もうこれ以上の分野からはアプローチできまいと思われるほどに、「持つこと」と「あること」について、私たちを連れ動かし、うして最後に今後の社会への展望が与えられるところにまでもたらしてくれる。過去の分析で満足しない。かといって自分の幻想ばかり語るのではない。誠実に、これまでの人類の歩みと、いま置かされている情況を指摘し、そうして、これからどうすべきかを語る。あるいは、モーセがピスガの高嶺からカナンの地を眺めたように、人類の行く末を懸念しつつ、希望をもとうとする。
 西洋社会は、このままでは子孫に対する責任が果たせない。経済で当然視されている現状に潜む重大な問題に気づき、改めていくことを強く求める。物が豊かになって幸福になったのか。否、却って不安を呼び、満足を得られなくなっており、幸福から遠ざかっているとはっきり指摘する。そして今後、宗教の役割を大きく捉えているというところが、私にも響いてきた。
 そして訳者は、「持つこと」と「あること」が、原題の中で「to have」と「to be」であることを挙げ、訳出に工夫をしたことを告白している。これはまた、たぶんシェイクスピアの作品にも関係しているのではないかと私は感じるし、それをも狙っていることだろう。つまり、「それがクエスチョンなのだ」と。




Takapan
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