『生きることは頼ること』
戸谷洋志
講談社現代新書2751
\900+
2024.8.
実はこのタイトルが、言いたいことのすべてを伝えてくれている。だが、どうしてその結論になるのか、その途中の議論が貴重である。世の中で様々言われていることに、安易に流されないようにするためである。また、自分で考えるということがどういうことであるのか、味わうためである。
サブタイトルには、「自己責任」から「弱い責任」へ、そう書いてある。これは、その論理のストーリーを少し具体的に表している。
前者の「自己責任」というのは、本書では「強い責任」とも書かれている。この方が、「弱い責任」との対比が明確である。しかし、そこは書店である。売りにかかるとすれば、断然「自己責任」がいい。この言葉なら、世間で知られている。しかも、関心を惹く。少し年齢の高い人ならば、イラク戦争のときに報道などで吹き荒れた「自己責任」という言葉が思い起こされることだろう。日本政府が、渡航自粛勧告を宣していた。しかし、それに従わない三人がイラクに踏み込んだために、誘拐されたのだ。その救出のために政府が動き、税金が使われるなどけしからん、という声が起こり、「自己責任」という合言葉が流れに流れたのだ。
筆者は、このような考え方を、「強い責任」と称する。それは、一見「責任」ということの本当の意味を表しているようにすら見える。そしてこの「自己責任」という言葉を突きつけられたら、反論できない空気が充満していた。しかし、筆者はその「責任」という概念が、特殊なケースを示していることを本書で明らかにする。そのための議論が、思索に慣れないタイプの人の心にも届くように、くどいくらい繰り返し、言い直して展開する。
本書を読んで戴きたいので、その詳細はここでは割愛する。ただ、筋道の一部はご紹介したい。サッチャーの例も用いながら、この「自己責任」の考え方は、実は政府は責任をとりませんよ、ということを正当化するための、尤もらしい建前である、とするのだ。
それは、自分で責任をとれない人を孤立化させる。この後、いろいろな例を挙げて、筆者は読者に考えさせる。シングルマザーが、体の具合が悪くても無理をするというのが、悪い意味でのその「強い責任」をとろうとする場面だ、などというのだ。しかし、そこで本のタイトルのように、「頼ること」に意味をもたせようとするのが、本書の主張である。
さらに、駅でぽつんと子どもが一人でいるときに、どうするのがよいのか、という例も挙げてくる。自分しかいないとして、自分が急いでいるにしても、その子に関わることが責任をもつということなのか、というような具合である。
もちろん、筆者は哲学者の一人として、アーレントやヨナスなども引っ張ってくる。が、それに拘泥しなくても、議論は読んでゆける。そして、自分が現実にどうすればよいのか、そこに立たせようともしてくれる。やや抽象的な議論が続くが、読者はじっくり向き合うならば、筆者の考えている世界に足を踏み入れてゆくことはできるだろう。
そのために、押さえておくべきところはここに示しても構わないだろう。
「弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた「弱い」主体が、連帯しながら、他者の傷つきやすさを想像し、それを気遣うことである。そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、何かを頼らざるをえない。責任を果たすことと、頼ることは、完全に両立する。それが本書の主張である。」(p198)
そして、末尾の部分も、お伝えしてよいのではないか、と思う。そこには、筆者の、論理や議論以前の、温かな心があると思えたからである。
「自己責任論が蔓延する現代社会において、私たちは、未来をリスクに満ちたものだと見なしている。もちろんそれは事実だろう。しかし、そのようにリスクばかりを前景化することは、傷つきやすさを抱えた他者を、特に子どもたちを、ただいたずらに脅かし、その可能性をかえって閉塞させることになるのではないだろうか。それに対して、弱い責任における保証と信頼の実践は、そうした脅威を和らげ、子どもたちの可能性を開くものとして機能するのではないだろうか。」(p201)
子どもたちへの視点があるところが、私は気に入った。これがあるために、本書は生きたのだ、とさえ思う。
さて、実は、この後にもう一段落ある。さすがにそこだけは、実際に本書を手に取ってから、お読み戴きたいと思う。

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