本

『生きることの質』

ホンとの本

『生きることの質』
日野原重明
岩波現代文庫
\1000+
2008.1.

 私は現代文庫で読んだが、単行本としては1993年発行のものである。この時点で、つまり著者が82歳の時点で、著書は200冊ほどであるということが記されている。亡くなるのが2017年、いったい何冊お書きになったのだろうか。
 広く知られる医師である。最後まで現役を通したことになっているが、享年105、驚くべき方である。執筆のため、睡眠時間はかなり短かったらしいが、京大医学部在学中に結核のために療養生活を強いられるなどしたことと併せて、奇蹟のような人生を歩まれた。よど号事件は、舞台が福岡であるため、私には身近に感じられた。その事件のことも、本書で幾度か触れられている。赤軍派の対応には私も目を見張った。人質という長丁場の中、退屈しないように好きな本を読むとよい、と貸してくれたのだそうだ。著者は、『カラマーゾフの兄弟』をそこで借りたのだという。
 牧師の子として、山口から大分、神戸と居を替えてきたが、京大卒業後、1941年から聖路加国際病院に入り、以後長期にわたり勤務することとなる。
 著者についてはご存じの方も多いだろうが、少し説明したのは、この本の講演や原稿を読むにあたり、著者の人柄にはある程度の背景を知っていて戴きたいからである。
 キリスト者としても著名であったが、それを押しつけることはしなかった。しかし、人生観や生命観などに、キリスト教は色濃く現れているように思われる。
 繰り返すが、本書は1993年発行が本来のものである。当時ホスピスは日本にわずかしかなかった。ここにはそうした末期医療の問題も多く扱われている。その後四半世紀を経て、ようやく著者の強い主張が、医学界で、実現してきているようにも見える。他にも、予防医学の提唱や、「成人病」から「生活習慣病」への名の変更など、常に先々を見据えていたのではないかと感じる。本書ではまだその時代を迎えていないが、地下鉄サリン事件のときに陣頭に立ち、またその備えの点からも、多大な貢献をしたことも、知られている。
 ミリオンセラーの『生きかた上手』は2001年の発行だというから、本書は元来そこまでもてはやされていない時期のものであったかもしれない。一つひとつはそれほど長すぎない講演が集められている前半では、その時々で違う視点を交えながら、医学の問題を取り上げ、かくあるべしという意見や、医者として自分が大切にしていることなどを、科学的な成果を踏まえながら語っている。それでいて、科学で人を切るのではなくて、いかに人の心を大切にするか、が伝わってくる。
 だから正に「生きることの質」なのである。この言葉は、その後「QOL」Quality of life(クオリティ・オブ・ライフ)と呼ばれて社会に定着していくが、この時点ではまだ「生きることの質」が適切であったことだろう。
 講演は、プロットのメモだけを壇上に置くのだという。そのため、お決まりのフレーズや事例というものもあったに違いなく、本書でも時折同じエピソードが出てくる。だがそれが講演というものである。何度も出てくるということは、それだけ著者にとり大切な意味のある事柄だというように理解すべきである。そのひとつに、「愛するとは、共に同じ方向を見ること」という、飛行家であるアン・リンドバーグが、同じ飛行家であるサン=テグジュペリの言葉から引いたものがある。これを真正面から掲げた講演の記録が本書に収められているが、ここには医学的な知識ではなく、専ら心のことが語られている。私にはたいへん心に染みるものであった。このスピリットがあるからこそ、医学的な対応もなされるのである。
 また、「21世紀の医療と患者」という講演では、それを含めて、先を見据えた医療の形で明確に描いていて、これもまた先見の明であるというか、後世への挑戦であるように見えて仕方がない。そこには、人間には言葉というものが大切だ、という、医学と一見関係がないかのようなフレーズも見える。医学は肉体へ機械的に斬り込むものではないのだ。
 そのような医学観も、実のところはっきりした結論を著者は懐いているからである。それは、医学は百%敗北の営みだ、ということである。どのように病と闘ったにせよ、最終的に人は皆死ぬからである。死の前には医学は絶対に勝てないのであると著者は言う。それでは何のために、という問いを、無力感のために出すことはできないだろう。その答えを、どうか皆さまで本書を通じて、見出して戴きたい。否、誰もが見出さなければならないのだと私は思う。医とは何か、については医療関係者が問うのであればよいかもしれないが、一人ひとりは、生と死について問うことが、必ず突きつけられている。
 それに応えようとすることで、医師と患者とが出会うところに、意義ある医療が成立するような気がする。




Takapan
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