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『生き方について哲学は何が言えるか』

ホンとの本

『生き方について哲学は何が言えるか』
バーナド・ウィリアムズ
森際康友・下川潔訳
ちくま学芸文庫
\1500+
2020.11.

 1929年生まれのイギリスの道徳哲学者が1985年に出した代表作である。タイトルの原題にははっかりと「倫理学」が打ち出されているのに、邦訳としては「生き方」と変え、手に取りやすくしたのかもしれないが、本書は明らかに、倫理学と、哲学との関係を始終突くようなものである。結局、倫理学というものが、人の生き方に対してどのように役立つだろうか、というあたりに集中すると言ってよいであろう。そのために、西洋における倫理学のおさらいをしたようなものである。
 やはり古代ギリシアは外せない。それから、当然のように、カント。この筋を押さえながら、最後には「真理」「誠実さ」「個人の人生の意味」というあたりに着地するという地図が想像できるだろうか。哲学と倫理学の拾い了解がなければ読み通せるものではないが、「いかに生きるべきか」という問いそのものは、凡そ万人が気にするところであろう。本書は欧米で広く読まれたらしいが、訳者が言うには、そんなに易しいものではないという。だが、確かに多くの人々が気になる人生論が、ここに検討されているのだということになると、欧米における人生論が、日本におけるそれのように情緒的なものを期待するのではなくて、論理的なものを求めているのだろうという姿が浮かび上がってくる。
 その結果、哲学が人生の答えを見出してくれるものではないだろう、というあたりに向かうとなると、さて、本書を読む意味はどこにあったのだろう。しかし生活で出会う問題をも、抽象的なことが多いながらもしばしば触れてくる論述には、私たちが原理的に生き方に対して生かすことができるかもしれないこと、あるいは自分の生き方を考えてまとめるときに役立つような捉え方が、ふんだんに見出されうるというふうにも理解は可能であるような気がする。
 私たちは、自分で道を見出すしかないのかもしれない。ただ、そのようにして生きていこうとする勇気に、何かしら本書はエールをくれるかもしれない。もっと自信をもっていいんだよ、と励ましてくれるかもしれない。そして、人類の叡智が歴史の中で考えてきた倫理というものは、直接いまここで答えをくれるものではないが、それでも私たちの生き方に寄与するものを、それらとの触れあいの中から与えられることは期待してよいのではないか、という希望をもらえたらいいと願う。
 邦訳は1993年にあった単行本であるが、それが2020年に文庫としてまた世に出ることとなった。そのため、原版も最新のものと比較したそうで、訳者の苦労が偲ばれる。また、訳者が本書に対する一種の愛着のようなものもあるのではないかとも思わせる。
 私たちは、自分の生き方を、既成の倫理学なり哲学なりにお任せしてよいのだろうか。お任せしようという気持ちで思想を求めて然るべきなのだろうか。そうではなく、さあ生きようとし歩み出す決意をしたその人に向けて、何かしら助けになるものを、倫理学や哲学は提供することはあるのだ、それは信頼してよいのだ、というふうに囁いているように感じられてくる。
 しかしやはり気になる。古代にしろ近代にしろ、すばらしい倫理思想はあるものだが、時代環境があまりに違う。文化も歴史も異なる中で、かつてのいわば一種の抽象的な議論というものが、普遍的にいまの時代に適用できるのだろうか。できる部分があるかもしれないが、適用できない部分、適用してはならない部分もあるはずだ。それを私たちの側の見解で任意に取捨選択するのだとすると、その取捨選択の根拠は何だろうか。そこをこそ自信をもって支援してくれるようなものとしてのあり方をする哲学が、求められているのではないだろうか。つまり、既成の命題からなる思想としての哲学に期待するのではなくて、この時代の背景を踏まえた中で、いま私たちに「使える」思想とその根拠を検討しながら、嵐のように情報が飛び交ういまのために、悪くない道標を指し示すものとしての哲学を、私たちは求めているのではないだろうか。
 生き方について何かが言える哲学を、いま私たちは切に求めているのであって、哲学が何か言えるかどうかを気にしているのではないように私は感じるのだが、どうだろうか。




Takapan
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