本

『私たちは生きづらさを抱えている』

ホンとの本

『私たちは生きづらさを抱えている』
姫野桂
五十嵐良雄監修
イースト・プレス
\1500+
2018.8.

 実に息苦しくなるような本である。ライターが出会った、生きづらさを抱えている人々に取材して、それぞれの生きづらさを次々と紹介していくという形式になっている。
 大まかに言うと、発達障害である。しかしそれはもちろん、一人ひとり異なる世界である。症状と言ってよいのか、生き方と言ってよいのか分からないが、それぞれに、それぞれの苦しさがある。周りとうまくコミュニケーションができない。ただ、それは当人たちが悪いのではないと私は思う。こうした形で生きている人々に不都合な論理なり約束なりで、この社会が動いている故に、それにそぐわないという理由で、弾かれているのである。これは良し悪しの問題ではないはずだ。一人ひとりの個性であるに違いない。しかし、発達障害をもつ人々は、社会の中に組み込まれず、労働の場から外されたり、仲間からは除かれたりする。それがまた当たり前となっている。
 いや、近年はいくらかは変わってきた。少しずつでも、そうでない者たちからの理解は始まっており、進んでいると思われる。
 18人の人々の生の声が集められてある。「東洋経済ONLINE」に掲載された取材記事を基にできた本だが、座談会もあり、生々しい話が聞ける。それぞれに、胸が痛くなるような出来事が平然と並んでいるかのように見えるのは、当事者でない者にとりすまないという思いへと落ち着くかもしれないが、私自身もこの中の一人のような者なのではないか、という気もしてくる。いや、事実私の中には、ここにあるような不都合を突きつけられているのではないにしろ、問題行動や考え方も、ある、と言ったほうが適切であるように自覚している。彼らのような苦労を背負っていないだけで、そしてその生きづらさということが、ひとつ信仰という世界で変えられたのだという経験もしている故に、社会的にひどく不利な立場に追い込まれていないことになる。  そう、私もまた、きっとこうした一人なのだ。
 などと言うと、この方々には文句を言われるかと思う。そんな苦労もないくせに。ひどい扱いを受けてなどいないくせに。その通りだ。だから、奇妙に「分かるよ」などという言葉を口に上らせることはしないつもりだ。
 こうして、いま社会でかなり響くようになってきた「生きづらさ」という言葉も、当事者でこそ意味ある言葉になりうるのだ、という前提を弁えた上で、もしかすると自分にもそれと共有できるものがあるかもしれない、という読者が一人でも多く現れたらよいと願う。きっと、多かれ少なかれ、ひとにはこういう面があるのではないだろうか。そういう理解が進むと、世間で臨まれるほどの俊敏な対応やひととの接し方がうまくいかない人に対しても、うまく付き合い、その人たちをうまくつなげられる社会を築いていけたらよいと思うようになるかもしれない。
 そして最後に、著者自身の話が長く書かれている。ここがある意味で一番重厚である。著者自身が、発達障害当事者であったということが明らかにされている。しかも、その過程がこれ以上ないくらいに生々しく描かれている。すでに発達障害の方々への取材活動もしていた当人がそうだった――というより、自分がそうだったからこそ関心をもって取り組んでいた、と言ったほうが適切であろうかと私は思うし、私がこの問題に関心をもつのものそういうことなのだろうという気がしてならないのだが、ともかく最後の40頁ほどは、著者自身の赤裸々な告白である。ある意味でここが最も痛々しい。
 問題の解決そのものがここに提示されている、という訳ではない。こうして問題を明らかにすることで、当事者の生きづらさが少しでもやわらぎますように、との祈りのような言葉で本書は閉じられる。それは、「普通の人とは違う」という事実を受け容れることで生きていこうとする思いの向こうにあるもののように記されているのだが、私はやはり問いたい。「普通の人」とは何か。誰が「普通の人」なのか。それを暗黙の既成概念として常識のように扱っていることに、そもそもの「生きづらさ」の原因があるのではないのか。私は、あなたは、その「普通の人」の中にいるのか。いると思っているのか。そこにいない、という自覚をもつ人、もたされた人が、弾かれるような社会であってよいのか。
 本書は、当事者として、そんな問いかけはしていなかった。だから、読者の一人として、私が問うてみたいと思う。




Takapan
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