本

『怒る!日本文化論』

ホンとの本

『怒る!日本文化論』
パウロ・マッツァリーノ
技術評論社
\1554
2012.12.

 社会の中の小さなことに怒るというのは、私も同じだ。見ているところに何か共通点を感じたようにも思えたので、読み始めてみた。最初のほうは、尤もな指摘が多い、とも思った。また、ある程度知ってはいたが、「昔はよかった」式見解がしばしば美化した思い出に彩られたものであり、マナーの悪さ云々については、半世紀前だろうが戦前だろうが、同様な部分が多々あるということを、熱心に新聞の投書欄を調べて紹介してくれたのは、ありがたい働きをしてくれている、と好感をもつこともできた。
 世の中の、そうした小さな「悪」について、即座に「注意」をしていくこと、ただし深追いせず、「叱る」ことの必要性をモットーに、言葉で「依頼」のようなあり方でそれをすることなど、かなり筋道立てて熱く語っているというのは、どこかショーでも見ているように、面白く拝見することができた。
 時折読者を悪し様に言うのも、いくらか楽しませる手法でもあるかのようにさえ見えたし、それよりも、世の中の、ちょっと気に入らないような人々をさらにけちょんけちょんにするところが、面白いと言うことができたかのように思えた。
 だが、何か違うぞ、という気がだんだんしてきた。つまり、いつの間にか、読者として私は、著者の渦の中に巻き込まれそうにさえなっていたのだ。何かしら資料を取り出して、科学的に論理的に説き、気に入らない社会の中の存在を糾弾していく著者であるが、そこに「正義」はないという。もちろん、偉そうに学者の名前や説を並べてもらっても仕方がないのではあるが、それを全くしないというのも、一つの手法であるように見えてきた。
 ありていの社会学のようなことを言うのではないが、それ以上に、どうやら自分以外の世界を見下ろしているような視点が感じられてならなくなったのだ。「正義」などでなく、自分にとり害悪を除くのだ、というその原理は、ある意味で正直なのかもしれないが、あまりに自己中心的である。つまり、なにかしらヤブ蚊でも追い払い、またともすればそれをひねり潰すかのように、自分の周囲の、自分の気に入らない人々を取り扱っているのだ。
 だから、自分のそばでイヤホンから音漏れをする者は極悪人か無知蒙昧であるかのように攻撃しながらも、赤信号を無視する自分の行為にはひとかけらの悪をも感じることができない。また、キリストの言葉を詭弁の一言で片づけるかと思えば、日の丸を拝しない教師を規則違反だからけしからんと一蹴する。このとき、大阪の橋下市長に共感し、このような教師は社会で生きる資格がない、とまで言っている。
 挙げ句、個人的経験によるのではないかと推測するが、犬が吠えることについて執拗に攻撃を続け、その飼い主を罵倒し、体罰を肯定するような見解をちらつかせる。様々な社会的発言を非科学的であり実証的でないとこきおろしてきたわりには、この著者の論理の随所に、「〜の可能性がある」とか「〜に決まっている」とかいうような、それこそ根拠のない著者の思惑による推測で事を運んでいるのは、気がつけばどうということはないが、つい発言の面白さにのせられていった読者は、気づかず、へたをすると信奉者になっていくのではないかと懸念させられた。
 そしてこの体罰の問題については、なるほど社会的な存在として、学校における問題に思い切った提案やプランがなされてはいるものの、私の目から見て、著者には教育的配慮というものが欠けているように感じた。子ども世界が、大人と同様の論理で、マナーを守るだの罰を受けるだのということでよいのであれば、著者の提案もひとつの価値があるかもしれないが、残念ながら何百年か前の時代と今とは違う。小さな大人として扱われていた子どもたちとは異なり、私たちの社会は、子どもなり青年なり、別の扱いをする文化の中にある。つまりは、未成年の犯罪は、成年の場合とは違う基準や配慮がなされているのだ。それは法の場面だけでなく、教育的な観点で扱うべき問題は各方面にわたっているわけだが、眺めている限り、そういう扱いを著者がしているようには見えない。
 電車の中での化粧は自分には気にならないから構わない、と言いつつ昔も同じようなことが言われていたとか、そこに日本人独特の都市伝説というでたらめが混じっているから化粧批判には矛盾があることなどを示す。しょせん、自身の気に入る・入らないで他を裁いていこうとする意気込みに燃え、そのために懸命に理論武装しようとしているばかりであるかのように見えて仕方がないのだ。もちろん、これは私の実証ではなく、印象に過ぎないのだが。
 また、他の人の大切にしているものへの共感や尊重といったものが殆ど感じられず、終始自分の価値観の弁明をしようとしているように見えてならなかった。それならそれで自分の意見の表明をすればよいのであるが、そのために、自分と同じように考えない他人をこきおろして見下すという手法をとるところが、この著者の、たぶん「弱さ」なのだろうと思えた。この人は、自分の考え方はどうですか、と提示するに留まればよかったものを、自分のように文句ははっきりと言い、危ないことからは逃げるという生き方をしないあんたがたは論理的に間違っており、社会に生きる資格がない、と嗤い続けている。
 ネットの世界で、こういう人が絡んでくることがある。他人の揚げ足とりが上手い。強烈な論理意識をもっているのは確かで、相手の出方を予想した上でかなりの武装をしてから攻撃をしかけてくる。見えないものへの信頼ということはしばしば一笑に付し、実証的であるかのようであっても、実のところ自らの偏見や一定の説への無条件的な依拠に基づいている自説については、気づいていないのが普通である。私も立ち向かおうとしたし、説得しようと、あるいはその人の見えていない世界というものがあるのだということを感じてもらおうと努めたが、難しかった。あくまでも、自分の見ている世界がすべてであり、自分の論理が世界の真理である、そして相手は全面的に間違っており、相手の信頼しているものは偽りであり欺瞞であると断ずるような立場を一歩も離れることができないようなのだ。
 そしてそれは、かつての私の姿でもある。
 一部の人々には面白がって読まれている著者のいくつかの著作は、面白がられているくらいならばよいのかもしれないが、知らず識らずの間に、多くの読者に勘違いを擦り込んでいくかもしれないと思うと、少し恐ろしい。




Takapan
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