『「いい子」を悩ます脅迫性障害』
富田富士也
ハート出版
\1,500
2004.1
手を洗っても洗っても、まだ洗わないと気が済まない。引きこもってしまい外へ出られない。親の何気ない言葉にいたく傷つき、それで立ち上がることができなくなった……。
心の弱い子だとか、過保護のせいだとか、そういう気持ちを理解できない人は言うかも知れない。世の中には、平気で他人を傷つけることができるタイプの人と、人を傷つける代わりにつねに自分を傷つけてしまうタイプの人とがいるようだ。
この場合、傷つくのは子どもたち。基本的に、子どもたちに非はない。どんな理不尽なことを口走り、また要求しようとも、子どもたちは、その言葉で、実は別のメッセージを送っている。それがうまく言えないがゆえに、無器用な表現方法をとってしまうのだ。――何も、公式的に、あるいは模範的に、見事な解答をしてほしいわけではない。そんなために親に疑問をぶつけているのではない。ただ共感してほしい。そうだね、と一言言って自分と同じように悩んでほしい。そのような形で自分の言葉を受け止めてほしい。一般的な解答を示したところで、それは冷たく突き放すことと等しいのだ。血の通った暖かな言葉が、一緒の心だよという実感と共に伝えられてもらいたい。つまり、言葉や心で以て、抱きしめてほしい。
それが、子どもの叫びである。願いである。
私はどちらだろう。ずいぶん言葉で人を傷つけてきたし、多分に今もなおそうなのだろうと思う。だからまた、自分の子どもに対しても、気づかないところで、心を潰しかねないような言葉を平気で吐いてきたものだろう。
この本を誠実に読むと、たぶん誰もが、そんなふうに受け取ることができると思う。この本を正面から見つめても、自分は誰をも傷つけてなどいないぞと言い張る人は、ほんとうに人の痛みが分からない悲しい人間ではないかと案ずる。
傷つき悩む子どもたちは、実は「いい子」たちであると著者は言う。いい子であるようにと一筋に思い、育ちあるいは育てられたきた子が、その期待に応えきれなくなるときがきっとあって、破綻を来す。そして、自分の苦しみや悲しみが親によって突き放され、理解されないのだと悟ったとき、ぷつんと何かが切れる……。
その子の気持ちも分かるような気がする。私は今でも、そういう子どもの心をどこかに有しているのではないかと思う。子どもっぽいと思う。また、それをもたなくなることが大人になることだと言われるなら、大人になどならなくてもいい、などと、やはりまた子どものようなことを考える。
だがともかく、この本は著者の体験上出会ったQ&A形式になっていて、どの質問も大変生々しい。具体的で、血が通ったケース・ストーリーであるということだ。
すでに八年前に世に問うたものを増補改訂し、新しくした本であるという。心理カウンセラーとして、多くの悩める子どもとその親と接してきた著者ならではの優しさに溢れた本となっている。著者や本が優しいだけではない。ときに涙を流しながら読み進む読者もまた、読み終わるときには、きっと優しさをいっぱい抱きしめていることだろう。ああそうなんだ、とうつむくときが、読者自身が、優しくなった瞬間なのである。