本

『異邦人』

ホンとの本

『異邦人』
カミュ
窪田啓作訳
新潮文庫
\400+
1954.9.

 きょう、ママンが死んだ。
 小説の冒頭部が口に上るのが、名作の証明のように見なされることがあるが、この邦訳もその類に確実に入るものだろう。この一言で、何の作品か、分かる。と、この冒頭と、何かしら不条理というキーワードくらいしか知らなかった私も、ちゃんと中身を味わわなければならないという意識に見舞われ、この度向き合ってみた。
 飄々と自分の感情をひたすら綴る主人公。社会常識的に考えたら、いったいこいつは何を考えているんだ、という気持ちになる。要するにそのように、書かれた当時の人々からも憎まれたことだろう。
 日本だと、人目というものがある。自分が何か行動を起こすのに、他人の目が気になるというわけである。しかし、それは全く知らない他人の目というわけではない。自分と無関係な他人は、野菜や動物と同じで、その視線を感じることはない。感じるのは、世間というレベルである。自分と一定の関わりをもつ人々の眼差しは、私たちの行動に何らかの影響を与える。私たちがそれを想定して、あるいは忖度して、自らの行動を制御していく。近年はその意識も低くなってきつつあるのは間違いないが、それでも「空気を読む」といった言葉が細菌でもあったように、周りに合わさなければならないとか、相手の要求を汲んで応対しないと失敗するとかいうことは、社会常識としてまだまだ生きているはずである。だからこそ、いじめというものもある。いじめは何らかの社会的立場や集団の中で起こるからだ。
 さて、そのように何らか気にする人目という存在であるが、もしもそれが全く気にならなくなったどうなるか、という思考実験をしてみよう。人から何を言われてもいいじゃないか、という具合である。なんだか羨ましい生き方のようにも思える。マンガの主人公の中には、時折そうしたキャラクターがある。他人を気にしない、奔放自由に我が道を進むというものだ。それを魅力的に感じるというのも、私たちが実際にそのような生き方を選び取れないという事情による。
 この小説の主人公は、どこか病的なまでに、そのように他人の感情や世間の眼差しというものを感じない。小説の内容をばらしてしまうのはよないが、要するに母親の死から葬儀へと至る一連の描写を淡々と綴り、感情の起伏のようなものを示さず、そうしてすぐさま女と関係をもつ。ふとしたことから、酷い殺人を犯してしまい、裁判を受けるシーンが長いが、そのときにも無感情という言葉で説明するのが相応しいような気持ちで、実に淡々と自分の思いを語り、周囲の人間の感情に関心を払うことなく、すべて他人事のように受け止め、見ている様子が伝わってくる。この様子が冷酷と目され、裁判関係者の反感を買うことになり、死刑判決を受けるという流れである。
 カミュのノーベル賞受賞に大きな力になった作品だと言われているが、作品中に「異邦人」という言葉が持ち上がってくるようなシーンは感じられない。カミュ自身が『手帖』の中で「聴聞司祭に対して,私の異邦人は自己弁護をしない。彼は怒り出すのだ」と、主人公ムルソーを「異邦人」と呼んでいることからも、主人公が異邦人であると捉えることについては、異説は多分ないだろうと思うが、しかしどんな意味で「異邦人」であるのか、これを論ずるのは恐らく文学的にも重要なテーマとなるであろうし、私がとやかく意見を述べるような立場にはない。日本語訳だと聖書でも読んでいなければ殆ど使うこともない「異邦人」という語でそれこそよそよそしいが、フランス語だともっと気軽に、私たち日本語でいう「外国人」のようなものでもあるだろうし、「よそもの」「無関係な者」といったニュアンスで、英語ならOutsiderやStrangerといった響きになるのではないかと思われる。いずれにしても、日本語で考えるには非常に難しいところで、解釈によって、初めて語が決まるのではないかという気がする。
 そこで、これは読者がそれぞれに感じればよいという、読書の愉しみの程度の話に留めたいと思うが、人との感情的なつながりを欠いた生き方を続けるとき、自分がよそものになっていく、それは孤高で気高いという場合もあるかもしれないし、自分ではそのように思っているのかもしれないが、果たしてそれでよいのか、あるいは逆にそれを非難すべきなのか、そういう道徳的な結論に急ぐこともまた避けたいとも思える。
 いまでは、引きこもりという問題が起こっている。その年齢層も上がっているし、人々と交わらない、交われないということが生活のすべてになっていくわけで、しかもそういう生活がある程度可能な世の中になってきているということも深刻な影響を与えかねない。そこに介入しようとした人に対する敵意が犯罪となって出来事化するという悲しい事態もありうるわけである。
 そこで私は、この「よそもの」の心理を描いた小説が、決して異常だとか特異だとかいうものではなく、日常のありきたりのものと非常に近くなっているような気がしてならないのだ。それは私自身の中にもある。私の中にも「よそもの」である自分がいるし、逆に他人を自分や自分の仲間からして「よそもの」扱いをすることもあるように思う。どうであれ、このムルソーを、私自身にとってそれほど「よそもの」のように思えないというところが、実は最も読者が感じなければならない点であるのかもしれない。自分はこんな奴ではない、と言い切るような精神が、最も問題なのではないか、というくらいにまで、それを押し進めたい気がするが、いまのところは、そこまでは僭越に言わないことにしておこう。




Takapan
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