本

『友だちをいじめる子どもの心がわかる本』

ホンとの本

『友だちをいじめる子どもの心がわかる本』
原田正文
講談社
\1365
2008.5

 シリーズ化している、心理を明らかにしていこうとしているものの一つとして出された。
 最初に言っておくが、この本は、「いじめる子」だけの心を解明していくものではない。「いじめられる子」の心理も十分取り扱っている。「いじめる子」の心理を知りたい、というふうにして買い求める人がはたして多いのかどうか、疑問である。なんだかそれは、ずいぶん余裕のある人であるような気さえする。いじめられているという状況の中で、なんとかその心理を知りたい、と切実に思うほうが先ではないか、というふうに感じたのである。
 心は機械ではない。だから、ある原因があれば必ず同じように反応するとは限らない。しかしながら、大きな流れとして見た場合、こうした状況でこのような心理になるものである、というのは、その立場に身を置けない人にとっては、さっぱり分からない場合が多い。それでも、そういう立場に立ったつもりで考えるなどと言ったり、自分の若いころにはこうだったと言ったりして、分かったふりをする大人も数知れずいる。
 それを思えば、この本のように、心のメカニズムを捉えていこうとする試みは、役立つチャンスが大きいものと思われる。安易に大人が思うような、「いじめられたことをどうして親に言わないのだ」みたいな疑問が実にまったく自体を理解していないということが、よく分かるであろう。
 そもそも学校という場が、いかんともし難くいじめを生む場である、という認識が必要である。詳しくは、本書をご覧戴きたい。
 適度なイラストや、プレゼンテーション張りの図示が、理解を助けてくれる。なるほどこういう心理が働いているから、これができないのか、と納得できるものが多い。
 学校という場に限らず、子どもと触れる機会のあるすべての人にとって、子どもの状態を知るためにも、このいじめという現象の背景にあるものを理解していくことは、益となるであろう。いじめは、いじめた側がけろっとしているのに対して、いじめられる側をとことん蝕んでいく、許せない事実であるということが、だんだん分かってくる。それは、いじめる側が悪魔だからという訳ではない。しかし、被害者側は、自己肯定感を滅ぼされ、魂が死んでいく。傍観者が簡単に理解できるようなものではない悲惨さがある。
 著者の姿勢で共感がもてるのは、誰もがいじめる側に回りうることを自覚していることと、親たち社会に責任があることを正しく指摘するところなどである。そうした痛みを十分もっているからこそ、子どもたちを守っていくためにどうすればよいか、見えてくるというものである。
 ただ、私は些か苦情を申し上げたい。最後に、被害者の家族、加害者の家族、そして学校という周囲の動きと望ましい対応などがまとめられているのだが、保護者の側からの立場で、学校に理性的に対応すれば、解決へのプログラムが展開していくような書き方がなされている点である。精神医学についてはプロ中のプロである著者も、教育現場の状況については体験があまりないものと思われる。被害者の親が怒鳴り込むのではなく、理性的に対処すれば学校が立ち上がり善い方向に立ち上がるような楽観的なコースが紹介されているが、残念ながら、たとえ理性的に保護者が訴えたにしても、怒鳴り込んだ場合の悪い反応として記してあるような、自己保身になってしまうというのが、学校の現状、現実なのである。冷静な訴えをすれば学校が耳を貸すというのは、私の実感としては、全くない。つまり、学校の中には、腐りきった指導者がいるという場合があるのである。そして、こういう学校に限って、冷静に理性的に学校に訴えた親を、モンスターペアレント呼ばわりするものである。学校は、子どもを真剣に守ろうとする気持ちなど、ないところがある。いや、少なからずそうだ、と言わせてもらう。
 教育委員会にしても、同様である。福岡県のような大きな教育行政組織も、そうである。これら官僚組織には、子どもの命や安全よりも、もっと大切なものがあるのだ。こちらのほうこそ、モンスターあるいはリヴァイアサンと呼んで差し支えないのではないか、と私は思っている。
 だから、いじめの問題に悩んでいたら、学校にではなく、この本の終わりに紹介されているような、民間のネットワークにまず相談することを、強くお勧めしたい。私たちはどうしても、学校というものは、教育をするところ、生命を守るところ、という思い込みがある。だから、しばしば期待を裏切られる思いをするのである。最初から、トラブルの事例をたくさん知っている専門家に相談したほうが、安心であると思う。




Takapan
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