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『アイデンティティが人を殺す』

ホンとの本

『アイデンティティが人を殺す』
アミン・マアルーフ
小野正嗣訳
ちくま学芸文庫
\1100+
2019.5.

 27歳のときにレバノンを離れてフランスに住むようになった。著者は、自分がフランス人、レバノン人どちらだと感じるかという問を幾度も浴びせられた。どちらもだという答えしかいつもないのだが、自分の中の一部を切り取ってなお自分だということの欺瞞を覚えつつ、この問題の背景を考えていくことになる。
 自分のアイデンティティは一つだけである。それを分けたり区切ったりすることはできない。しかしまた、尋ねる方は、深いところにある真実のひとつの本質を教えてくれと迫る。西洋社会は、国境を接する地理的な条件のもと、様々な民族や言語、宗教が隣り合い、どちらの味方なのかと迫られる場合もあるだろう。一方で自由だと安心させておきながら、何かの対立が起こると、どちら側なのかが大きな問題になるのかもしれない。
 狭い帰属に押し入れられるべきなのだろうか。他者をそうした狭い帰属に閉じ込めるものは、私たちの眼差しである。また、そこから他者を解放するのも私たちの眼差しである。これは、先日『差別感情の哲学』でも指摘されていたことである。ひとつに閉じ込めることで、党派的で不寛容で支配的な圧迫が起こり、自殺や他殺を引き起こすようなことも私たちはしでかすのである。ここが、本書のタイトルにつながってくる。
 現代はグローバルな理解と動きが進んでいるが、それよりもっと普通に、生まれた地とは別の地で生きている事情があり、誰もが移民であり少数派であるということはないだろうか。言語や文化においても、新たなものを習得する必要があり、そのとき幼いころから形成されてきた自分のアイデンティティを押さえつけることになる。
 著者は西洋文化の中にいる。それで、どうしてもこのように自分とは何かを考えるとき、宗教や言語という問題が真っ先に出てくる。いずれ議論において、言語の分野に焦点を当ててくるのだが、宗教についても、要するにイスラム教との関係については切実な問題をキリスト教国は抱えている。また、ナチズムが招いた歴史についても、絶えず検証をしていくものでなければならないと捉え、関連事項としての話がたくさん出てくる。著者は作家であって学者ではない。ローマ帝国の歴史も平気で出てくる。
 自身の立場としては、キリスト教信仰の中にある。そのことを不都合だとも考えない。それもまた自分というものを形成するひとつなのである。この宗教が対立を生むとかアイデンティティを強調するとかそういうことではなく、宗教がなくなればよいなどとは全く考えない。そうではなく、宗教のような精神的な事柄については、アイデンティティを図るということはあるものに帰属しているかどうかということと切り離して考えるべきだと言う。宗教が争いを生んでいるとか、宗教が何であるからおまえはこうだというアイデンティティの圧力とかいう問題に右往左往される必要はないのである。
 それは一定の歴史や伝統というものによりアイデンティティが決定されるというようなものでもない。私たちが今プロテスタント信仰であると自分の信仰を考えていたとしても、もしも500年前の人と対面したとしたら、思い切り堕落者と石を投げられそうになりはしないか、とまで言う。つまり、かつて非道徳的とされたことがいまは何の非難を受けることもなくまかり通っているわけである。
 著者は最後に、民主主義ということを持ち出して議論する。民主主義はかつて、普通選挙を理想として掲げて運動した。だが、本当に民主主義はそれで満足のいくものであり続けたのだろうか。あのナチスに権力を与えた過程は、それほど特殊なものだったのだろうか。民主主義があのようなものを生む危険は、あまり誰も心配していなかった。普通選挙がすばらしいことだというのは事実であっても、危険なものをも同時に含んでいるに違いない。
 自分がいま生きてい国土と全世界に一体感を感じられるようになるべきだ、と著者は終わりに宣言する。自分自身の多様性を受け容れ、自分のアイデンティティを自分の様々な帰属の総和として思い描くことができるように励まされて然るべきだ、というところから、著者の「あとがき」は始まる。
 そして誰をも排除しないようなシステムを構築しよう。安定した一体感を伴って、落ち着いた歩みを始めるのでなければならない。そのように著者は自分の思いを最後の「おわりに」で暴露する。各人のアイデンティティと見なすものの中に、豊かに新しいことがスタートするために必要なものがきっとあるし、なければならないのだ。
 そのアイデンティティを殺すようなことをしてはならない。そのとき、人はアイデンティティに殺されもするのだ。何にしても、自分が相手に対して考えしでかすことは、自分にも攻撃してくるものとなる。実はこのとき、言語というものの影響の大きさがずっと例示されていた。言語を自由に使うことができるのでなければならない。言語が様々あるというのが当然で、誰もが自分の安心できる言語を使える社会であるべきだという。言語がなければ思考できない。自由な思想を育むものは、言語の自由であった。英語が偶々グローバルなようだが、その点でも著者はひとつづきの見解を懐いている。こうした多くの実例にも触れながら、社会を見つめる眼差しを、ここから多く学べるような気がする。




Takapan
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