本

『自分の居場所のみつけかた』

ホンとの本

『自分の居場所のみつけかた』
斎藤学
大和書房
\1575
2006.5

 家族機能研究所という名のクリニックを営む著者が、そこで出会った人々の実例をふんだんに用いながら、居場所ということについて考えていく本である。
 人物についてはプライバシーを配慮しているとはいえ、その報告は実に生々しい。また、多くの実例が、というより終始実例が紹介されていると言ったほうがよく、この本の中に、一般的な理論や方法を探そうとすると、その方が難しいと言える。
 たんに家族問題を研究している、というわけでもないように見える。読み進むにつれ、家族という言葉が、私たちが孤独に生きているのではなくて、誰かと共に生きているのだという意識の中で言われているようにも思えてくる。
 これまでの家族像が崩れていく時代である、とも著者は語る。それだから、今誰かと共に生きられないで悩んでいる人々は、これからの時代の先駆けであり、炭坑のカナリアであるのだ、とも言う。どうしても、こもり悩む人は、自分を欠落の中に見出していきがちかもしれないが、このように積極的な役割をもって捉えることもできるということは、私にも学びであった。従来の枠にはまらないことが、そのまま欠陥であるという理屈は、成立しないのだ。
 実例ばかりだと言ったが、116頁あたりからの簡潔な理論説明は、逆に目を惹く。
 居場所とは関係である。誰かを愛する能力が必要だ。自我でなく自己を探すのだ。これらは一体のものとして捉えたい。怒りに羨望が入ると憎しみになる。これが人間関係を破壊する。愛することが、見返りとは関係がないので、愛することがカギである。愛されることではなくて、関心をもらうことがあれば、生き残ることができる。それを関係として成立させることが大切。
 命題を集めると味気なく、またこれだけでは何のことなのか伝わらないかと思うが、こうした理論が、予告なく突如として何度か入ってくるので、この内容を活用したい人は、その箇所に付箋を使うなどして、役立てるとよいかと思う。
 読み物としてはそれでよいのかもしれないが、これを役立てようという人のために、いくらかの索引を設けるということは、この種の本を著す人々にいつも強くお願いしている。
 境界性人格者についても、なかなか分かりやすく書いてあって、その点でもさすがプロだと感動したほどなのである。
 こうしたメンタルな問題を抱えた人は、キリスト教会にも訪れることがある。そこで、教会の牧師などの中には、この問題を自分の使命と考えてそこに走っていく人もいる。しかし、こうしたプロの本を読んでいると、とても、聖書を伝えながらその一方で取り組むことができるほど、心の病の問題は簡単でないことが分かる。キリストは癒しをなしたもうが、人間がそう簡単に責任ある治癒をすることはできないのだ。全身全霊で取り組んでいるこの著者のようなプロに対して、失礼な態度であるようにも感じた。
 キング牧師でさえ、公民権運動のために全力を用いたのは、他方で、聖書の福音を解くという方面では活躍していないという背景がある。あれもこれもということは、そう簡単にはできないということだ。それでも、自分は心の病に重荷がある、とこだわる人がいれば、それはもしかすると、当人が自分の心の病を癒したいという願望の裏返しである可能性が高い。結局、聖書に救われておらず、神の召しを受けておらず、自分が救われたいがために、心の病の問題が自分の使命だと正当化しているという図式である。
 医学を十分修めた上で牧師としての学びをしている人は、もちろんその限りではない。しかし、自分が救われたいがために手を出すというのは、実はプロの医師も、そんなふうにやってもらっては困るという、素人療法を施し、逆に教会には行かないように、と患者に指導するようなことにもなっている。本当にその人を救うのだという強い決意は、決死のプロがいるならばそちらにリードしてもらうのが第一である。
 クリスチャンは、神と和解するというのが、生きるベースにある。心の病の中にある人々は、自分と和解するということで、まずは手一杯である。それができないために、多くの苦しみがある。教会に救いを求めて来る人に、とにかくまず聖書の福音はこうだ、とぶつけるのがよいのかは、慎重にならざるをえない。それこそ、まず「愛する」ことから始めないといけないというのは、どうやら精神医学のプロのほうが、確かな目をもっている場合があるのかもしれない。




Takapan
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