本

『不要不急』

ホンとの本

『不要不急』
横田南嶺・細川晋輔・藤田一照・阿純章・ネルケ無方・露の団姫・松島靖朗・白川密成・松本紹圭・南直哉
新潮新書915
\780+
2021.7.

 なんだこの表紙は。著者である10人の僧侶の顔写真にも魅力があって購入したが、そのカバーの下に、茶系のグラデーションのデザインの、ふつうの新潮新書のカバーも隠れているではないか。カバーが二つ着けられているのである。
 サブタイトルが「苦境と向き合う仏教の智慧」。表紙には、コロナ禍のことは全く出てこない。基本的に本書は、新型コロナウィルス感染症が猛威を振るった情況について述べている。それを「苦境」という言葉で総括してしまったのは、仏教らしいのかもしれないが、ビジネスとしては弱かったのではないか。否、中央にどんと陣取った「不要不急」の文字が、ただそれだけの言葉なのに、コロナ禍の話だということを知らせてくれる。それは、まだ発行したときもコロナウイルスの世界のただ中にいるからであるかもしれないが、恐らくしばらく後の時代までも、「不要不急」という言葉がそれに関わることだという認識は、続くのではないかと思う。
 コロナ禍は、いろいろな新しい言葉を生んだり、世に流行らせたりした。カタカナ言葉も多い。毎日のニュースや広報の中で響き渡っていた言葉であるから、聞いたことのない人はいないほどだった。そのひとつが「不要不急」であり、仏教者たちの心に強く引っかかっていた。
 外出が「自粛」させられる(奇妙な表現だ)。仏法を説く営みが禁じられる。「不要不急」のことは止めよ。仏教活動は止めねばならぬ。つまり仏教活動は不要不急なのだ。これが、僧侶たちの心にずしんと重く響いてきた。もちろん世間の人がそのように突きつけたというわけではない。仏教者自らが、自分のこととして受け止めてしまったのだ。
 果たして自分の勤めてきた行いは、しょせん「不要不急」のものにすぎなかったのだろうか。人間にとって、要らないことだったのだろうか。自問させられる。いやいや、これは人間にとり大切だ、宗教は本質的なことだ、という思いが自分の中にはきっとある。だが世間はそのようには見ていないのではないか。実際、「不要不急」のことは戒められており、仏教は戒められているからだ。
 これは誠実な悩みである。キリスト教界では、殆ど聞かなかったような悩みである。「クリスチャントゥデイ」が、ウェブサイトにおいて、本書に関する意見を示している。どうやら教会関係で、この本のように仏教の立場をコロナ禍においてきちんと示すという営みが、なされていないような口調であった。確かにもがいているかもしれない。正に「苦境」であるかも知れない。だが、本書を通じて、仏教がたんなる不要不急ではないことを、説いているのは事実である。教会が同様のことを世に問うたのだろうか、というそのサイトの意見は尤もである。世に問わないということは、自らにも問うていないということであろう。果たして礼拝は「不要不急」であったのか。そう、多くの教会が「礼拝中止」を宣言することで、善き市民であることを宣伝しようとしたのは事実であるが、そのことで教会活動や信仰や礼拝が「不要不急」のものであることを、自他共に認めてしまったようなことになりはしないだろうか。
 本書に戻ろう。10人がそれぞれに、それぞれの立場から見える景色と、自分の経験をよく語ってくださった。先のウェブサイトでは、「決して仏教を称揚しようとしているわけではない」などと安全牌的な断り書きを入れていたが、入れる必要はないと思う。大いに仏教を称揚すればよいではないか。ああ、キリスト教界が全くサボっていたことを、同じ「宗教」の「不要不急」なるかどうかの問題を説いてくれた、と認めるしかないのではないか。これだけ価値ある問いかけを世に出しているのに、称揚するつもりはない、なぜならキリスト教界はもっと正しいからだ、のような態度でいるのだとしたら、それはもう教会の死に直結するような考え方であると思う。
 もちろん、課題がコロナ禍だけであるのではない。まだまだ長引くだろう、と2021年時点で述べてもいるし、事実その通りになった。だが、人情篤い僧侶もいれば、冷徹に理知的に説明を施す人もいる。仏教の考えを正面から出してくることもあるし、聖書の考えを持ち出す人もいる。哲学の考え方を見せてくれる人もいる。社会福祉的な活動の大切さを、実践をもって語ってくれる人もいた。社会理論を以て問い直すこともあっていいし、もちろん仏典に根拠を求めてもいい。門外漢でも、実によく学ぶ意義のある話がたくさん聞けるのである。
 最後の方が、「エッセンシャルワーカー」という言葉にも疑問を呈していた。否、その言葉を使う人が悪いなどと言うのではなくて、その言葉が何を背後にもっているか、という問題である。職業に貴賎はない、という建前を信じなければこの社会で生きていけないような現代であるが、「本質的な仕事人」というものがここに存在するということは、宗教者など、「非本質的な仕事人」であるに違いない。本質的ではないことをしていること、それが「不要不急」だということと、まともにつながつているわけである。ほかにも深い洞察がそこにあり、トリを務めるに相応しい文章だった。
 予想されるだろうが、「不要不急」という世間で飛び交っている言葉の使われ方ではないところに、何かを見出しているというのが、これらの方々の智慧であろう。しょせん不要不急の人生なのだ、というところに仏教らしいひとつの真理をもたらしてくれるのもよかった。そして、そこから次に何を見出していくのか、という智慧を求める歩みに読者を誘うということもあった。「知恵」を求めるだけなら、聖書にも、特に旧約聖書にはたくさんある。もちろん仏教の智慧とは異なるが、キリスト教はどうやら、旧約聖書から神の声を聞くことはなくなったかのようである。「知恵を求めよ」との言葉は、もう誰も知らないのではないか、と思われるからである。
 表紙にある。「それでも、大切なものは何か――。」この問いに挑戦を受ける人は、どこにいるのだろうか。そして、世に何を示すのだろうか。神の救いを示すつもりは、もうさらさらないのだろうか。それとも、もういま教会には、神の救いなどというものが、そもそもなくなってしまったのだろうか。本書を通じて、問い直してみたら、もしかすると、それが復活するかもしれないではないか。




Takapan
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