本

『聖書の読み方』

ホンとの本

『聖書の読み方』
北森嘉蔵
講談社学術文庫1756
\800+
2006.3.

 大文字版とわざわざ記してあるのは、文庫として若干大きな文字で書いてあるということなのだろうか。『神の痛みの神学』は、著者の比較的若い頃に記された名著だが、円熟期に書かれた聖書の読み方についての本書は、懐が深く、余裕のある書き方で読者を包むような印象である。その寛大さのようなものが、大きな文字であるのかもしれない。
 聖書をどう読めばよいか。ありきたりの入門書のようなタイトルや触れ込みにも見えるが、中を覗いて見ると、そんなことはなかった。これはかなりユニークで、画期的とも言えるようなものだった。
 著者は実は、同種の本をすでに上梓している。『聖書百話』である。それの続編のようなものではあるのだろうが、今回は系統的な読み方を提示するようなことはなく、ひたすら事例を挙げて対応しているようなものなのだという。どこから読んでもよいようなものだが、やはり前から読めば一応の流れというものは感じられる。
 また、聖書についての本は多々あれど、そうではなく、読者が聖書に直に触れ、聖書にひっかかり、聖書に立ち止まり、聖書から何かを聞くような経験をすることが目的なのだと明確に記す。これには私も賛成だ。聖書がいのちのことばである、という信仰は確かにそのような姿勢を生むかもしれない。
 そうは言っても、聖書について前提となる知識が不十分でありうる読者にとっては、何らか紹介は欲しいだろう。そのような言い方で、聖書の読み方についてのレクチャーが先行する。ここには、各駅停車の読み方や、なんといっても今回の目玉である、「すかし模様」の喩えが説明されている。やはりここは、著者にとりどうしても言いたかった内容だと思われる。つまり、こういうものは不要だと断りつつも、実のところひじょうに言いたいこと、理解してもらいたいことが堂々と書かれているのである。
 旧約聖書の中に、新約聖書が予告されている。これは「予型」と言われ、「予示」とも考えられる。キリストがすでに旧約聖書にあると読むのだが、当然これはキリスト教側の理論である。しかし、旧約の預言があってこそキリストという構造であるわけだから、キリスト教にとりこの考え方は生命線である。著者の提示する読み方は、このキリストを読み込むための方法であることは間違いない。
 印象を言えば、非常に目を開かされる、というものである。決して、「霊的な」という言い方でごまかして、独断的な感想を聖書にぶつけるのではない。聖書の歴史や研究に基づき、その上で、なるほどと気づかせるような点を指摘する。たとえば、「狂った弓」という言葉が詩篇にある。何気ない人間への言葉としてのフレーズであるが、弓に喩えられた人間そのものが狂っているということを示しているというのだ。人間は元来善であるが、なにものかによって曲げられた、という構造ではないことを、これは表しているという。矢や、飛ばし方が悪いのではない。そもそも弓そのものが曲がっているのだ。人にそもそも根底から属している罪というものについて、こんなに見事に著した表現があったのか、と驚かされる。聖書にある何気ない表現の中に、このように人間の本性がしっかり語られている。それは私も分かっている。だが、自分で見つけられないような部分もある。いや、聖書には無数にそのようなものがある。著者は、それらのうちのいくつかを教えてくれる。ひとつには、神学的に有名なものであるのかもしれない。だが、私の印象では、著者が自分で黙想のうちに感じたこと、示されたことも多いのではないか、と思われる。つまり、受け売りの説明では、たしかに見事な説明はできるかもしれないが、そこに命はない。命が伝わるには、自分が神から感じさせられていなければならない。そうした力というものがあるというのならば、そこには、確かに神から直接伝えられたものがあるのだろう、と思うのだ。
 薄い本である。一息に読めないこともない。だが、ゆっくり味わうのがよいと思う。また、これはあくまでも読み方のひとつの伴走である。本線は聖書である。結局、読者が聖書に直に触れ、聖書から声を聞くことが求められている。そこにしか命はない。聖書はなるほどそのような読み方をすれば味わいがあるのだ、というコツを学ぶための本である。
 分かりやすさは一流である。問題は、この後読者が、聖書とどう出会うか、である。良い本である。




Takapan
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