本

『希望のつくり方』

ホンとの本

『希望のつくり方』
玄田有史
岩波新書1270
\760+
2010.10.

 とにかく一冊、「希望」という言葉だけを綴っている。それは、文学者の思いつきではなく、ライフワークとして「希望学」を打ち立てて、地道なフィールドワークも行っている人だ。これは新書とはいえ、ここまでの集大成の観がある。
 そのために、実例や体験を含め、丁寧に書かれている。最後のまとめは、本書の何頁にこれがあった、と挙げ、またそこを見ることがしやすいように配慮してあった。
 どうにも閉塞感に包まれているような息苦しい世界が続いている。時代は困難であるとか、望みがもてないとか、まるで合言葉にしているかのように、挨拶代わりに飛び出してくる。それは、おとなの照れ隠しなのかもしれない。ひとり喜んでいると、風変わりに見えるために、調子を合わせて、難儀ですなぁと言っておく人も、きっといることだろう。だが、子どもたちはまともにそればかり聞いている。これは辛い時代なのだ。希望などあるものか。
 そう、言葉は人をつくっていく。消極的な言葉をばらまいてはいけない。そこで著者やそのグループが投げかけているのが、「希望」である。
 高度成長期には、多分に希望があった。働けば昇進する。給料が上がる。トヨタの場合、カローラがいつかクラウンに、というような階段的な願望が常識とされていたほどである。しかし、不景気な時代になった。子どもたちというばかりか、若い世代は、そもそも好景気という時代の空気を吸ったことがない。バブル期の映像などを見て、別世界を見るような目で見ている。あのときには希望と喜びに溢れていた。
 本書は、哲学的に「希望」の概念や認識構造を思索しようというものではない。私たち生身の人間が、実際に生きるその場で、希望をどう生み出すか、というだけの関心しかない。実践的であり、実際的な「希望」の身に着け方を考えているのである。
 あとで「まとめ」として掲げられていることをここに並べると、営業妨害となるかもしれないので言わないが、希望をただ待つのではなく、自ら見つけていこうということ、さらに言えば、自分で探すもの、自らつくりだしていくもの、という基本スタンスくらいは、明かしてもよいかと思う。
 なるほど、と教えられることも多かった。現実の人々のルポもそうだが、私にとっては、仏教には「希望」がない、ということだった。それは、仏教に未来がない、という意味ではない。仏教の聖典、あるいは教えの中には「希望」という概念がないのだそうだ。著者の推測も混じるが、仏教は希望することがなくても、仏に導かれて極楽浄土に行くことができる、むしろ希望という我執めいたものを捨てることこそが、仏教の目指すものであるのかもしれない。希望する、という心すら、超えていくのである。
 著者は、経済学、そして社会学の方面で働く。社会的な環境、人間行動、そうしたものから幸福や希望を見つめている。従って、人間心理を探究しようというふうでもない。もっと実際的に、この社会で共に生きていこう、という方向で提言しようとしている。だから、たとえば高齢社会はだめだ、といったような価値観を決めつけようとはしない。高齢社会には、それだけまたよいものがあるのであり、希望が見出されるというのである。人生の酸いも甘いもかみ分けた、経験の猛者たちがたくさんいる。若者たちへ語りたいことはきっといくらでもある。数字で判断すると、貧弱なデータしか出ないかもしれないが、昔のことを取材されて語るうちに、生き生きとした顔を見せてきた高齢者たちの実例と友に、むしろ希望を生むための好材料にもなり、現にそうなっている、というメリットを見出すこともできるというのである。
 そこには、なんらかの「物語」も関与しているらしい、と著者は気づく。ブロッホの、希望の内容は今は「ない」が、だからこそ求めるべき対象として希望が「ある」のだ、という見方を軸にして、フィクションとしての希望の存在を掲げ、それが人々に想像力をもたらし、希望をつくっていくのだ、という、まさに「希望」を見出しているのである。
 いくらか詭弁のように聞こえるかもしれないが、私はそれでよいと思う。ここに、「想像力」と「物語」という語が見え、そこに「希望」があるというが、私はこれらは、人が生きる上で、そして人を生かす上でのキーワードの一部であると考えている。すると、これは私に引きつけての意見だが、聖書のメッセージを受け取るためのキーワードでもあるだろう、と信じる。
 本書でも、キリスト教の希望については、短いながら触れている。やはり希望を論ずる上で、聖書を無視することはできないらしい。またそれは、オバマ大統領のときのように、希望は現実の政治をも変えていく、ということの実例にもなっている。
 私は実は、これらのキーワードに加えて、「良心」という言葉を鍵に考えていくべきだと思っている。それは日本語の「良心」ではない。「共に知る」という形で伝えられてきた、西欧語のそれである。
 本書は、実に誠実につくられている。そして、著者の若さと純朴さを覚える。いや、年齢的に若いというわけではない。それでも、ひねた見方をしようとする意図はなく、しかし様々なケースを想定する知恵を有しながら、言うなれば純粋な一筋の道をここに描こうとしているのであり、そこにはえもいわれぬ清々しさを、私はずっと感じていた。妙に「青い」論調であるのだが、きっとそれでよいと思う。
 ただ、ここには、釜石市での取材が意義あるものとして書かれていた。ここは津波の悲しい歴史を背負っているが、笑顔がある、希望がある、というように綴られていた。私は絶句した。本書は、2010年秋の出版である。この半年後、釜石を始め東北の多くの海辺の町が、東日本大震災の波を被るのである。あの希望の笑顔がどうなったのか、それを思うと、いたたまれなくなったのである。
 出版後、その東日本大震災が起こり、世界の分断が懸念され、そしてコロナ禍に陥った。私たちは、改めて「希望」を問う必要に迫られている。本書は、新書の古書安売りコーナーにあったけれども、希望は安くは手に入らない。読まれてほしい。まだしばらくの間、この本が希望を与えるチャンスは、あるはずだと思う。希望を、共につくるために。そして、あなたが、つくるために。




Takapan
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