本

『漫画 君たちはどう生きるか』

ホンとの本

『漫画 君たちはどう生きるか』
吉野源三郎原作・羽賀翔一漫画
マガジンハウス
\1300+
2017.8.

 もういつのことか、昔に読んだのは間違いないし、その爽やかな内容は、いつか我が子にも読んでほしいと願ったものであった。ベタなところがないわけではないが、私は好きだし、ぜひ一度は読んでほしいと思うものだった。その願いはとりあえず叶ったが、これが後に漫画という形で一大ブームになるとは、予想していなかった。
 2017年に出るや、懐かしいと手に取る年配の人や、その勧めで読んだ子や孫がけっこう好印象をもったり、そんな情報が飛び交うとまた読んでみたいと思う人が増えたりで、かなり売れ、かなり読まれたのである。
 漫画という媒体の力を思い知る。活字だけでは手に取らない人が確実にその内容を知るに至る、これはゼロか百かという点で、大きな差になるものである。
 岩波書店の編集者としてよりも、この著作によって広く知られるようになった、吉野源三郎。本書のストーリーでも恐らく自分を描いていると思われ、その「おじさん」が中学生の甥のコペル君にメッセージを贈り続けるという構成は、自身の分身であったに違いない。
 ずいぶんとお説教臭い、道徳の本みたいだと思う人がいるかもしれない。だがこの「おじさん」のアドバイスは、基本的に「自分で考えろ」である。ああしろこうしろと指示を待つだけの若者であってほしくないわけだ。しかし、十分ヒントは与える。また、自分で考えて実行してみて失敗したとき、挫けたときには、精神的にバックアップしてくれる。いい大人なんだろうと思った。が、その支えに気づき受け止めるコペル君も大したものだという気がする。
 コペル君は、中学生という設定だが、本書が書かれた1937年当時の中学生の平均的な姿はこういうふうであったのだろうか。いわゆる戦前だが、制度的にいってもいまの中学生と年齢的に変わるものとは言えず、漫画で見るかぎりはいくらか幼い印象を与える。小学上級くらいの感覚なのだがどうだろう。
 だとすると、小学生でもこのストーリーは読めるのではないかということだ。ただ、思想的にはいまの中学生で果たしてどこまで読めるかどうか、分からない。高校生くらいがびしびしくるのではないかと思うが、こればかりは当事者でないとなんとも分からない。このように、私の感覚ではあるが、小説に登場する子たちとすれば中学生以下だが、考えの質は中学生以上かもしれない。自我の目覚めはもちろんあるが、自分を見つめ、他者を大切にするという基本の姿勢は、昔は普通のことだったのかもしれないが、情報科学の発展したいまの時代においては、時代遅れのようでもあり、しかし精神的には高いものもあるような気がしてならない。
 コペルニクスを象徴する主人公の設定は、物語の大きなテーマにも沿うものとなっており、私たちは考えの軸を自分本位からトランスすることにより、成長することができる。最後もそのような考え方の中に結ばれていくし、児童文学としても上質である。いじめっ子や貧困家庭も登場し、時代を感じさせるが、考えてみればこうしたことはいまも同じである。形を変えてはいるものの、いまもなおそうだろう。しかし、ここには親同士の確執のようなものは現れず、子どもたちは子どもたちの間の問題を、親には知らせないでいられるものなら徹底的に知らせず自分たちだけで解決を図ろうとする。この点、いまの中学生ならどうするだろうか。つまり親に内緒ということは、自分たちで責任を負うということだ。自己責任をどこまで覚えるか、そこにひとつの考える鍵があると言えるかもしれない。
 漫画家としてベテランとは呼びづらい作者だが、展開もコマ割りも、なかなかいい。ちょっとラフな、粗雑なタッチのようにも見えるが、どうしてどうして、自然に読ませ、見せどころを演出する。漫画としても良質のものだと言えるだろう。ただ、話の性格上、章毎に頻繁に、原文そのものが長く引かれるので、思えばかなりの部分、実質小説のほうを読んでいるような感覚になる。文章を読むのが嫌で漫画なら、と手に取った人には苦痛に思えるかもしれないが、これくらいはぜひ我慢して戴こう。そうして、次はぜひ文章だけの原典を味わってほしいし、また他の活字本も積極的に体験して戴きたい。
 君はどうするか。「たち」すら除いてぶつかってくれたらと願う。そしてこの問いかけは、たとえ本書がなかったとしても、私たち誰にも突きつけられており、呼びかけられているのだということを、忘れたくないものだと思う。




Takapan
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