本

『「放蕩息子」と復活』

ホンとの本

『「放蕩息子」と復活』
冨吉建周
創言社
\1942+
1995.4.

 偶然に見つけた本だった。ちょうど、放蕩息子のたとえからのメッセージを考えていたところだったので、渡りに舟と手に入れたが、結局間に合わなかった。
 著者については九産大の教授だというが、九大の博士課程を出ているらしい。しかし、神学のような分野を専門とするものではないらしい。いわば、一般信徒が聖書研究をしている、ということのようだ。もちろん、そんな中にも素晴らしい仕事を見せてくれる方もある。さて、本書はどうだろうか。
 出版社は創言社とある。推理小説などの創元社は実は東京創元社であって、大阪の創元社は人文学関係の出版を続けているらしい。創言社のほうは、福岡地元の小さな出版社であるようだ。すぐ近くを通ったことがある、そういうローカルな場所である。
 本書の由来は、「あとがき」でようやく明かされるが、著者のまとまった研究の、一部だけを抜粋したようなものであるという。「椎名麟三とキリスト教」という研究の第4章の一部に当たるのが、この「放蕩息子のたとえ」の探究であるらしく、そこだけを独立させて問うものとしたようだ。その研究全体のテーマは、見るところ「復活」にあるらしい。この説明を最後に見て、ようやく分かった。放蕩息子のたとえの解釈というよりも、ここでは、やたら「復活」することへ議論が走っていたからである。
 つまり、この放蕩息子についてその父親は、すねる兄に対して、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と説明したのだ。ここに「復活」の考えを見出して、では何故それが復活なのか、ということを説くために、ここに200頁近くを割いて議論したというわけである。
 最初の「はしがき」にあるように、信仰の言葉を、「どこまでも哲学のこととして」解明しようと努めたらしい。また、名前を出していることからすると、滝沢克己先生に学んだ人であるらしい。九州大学の歴史の中の、ひとつの華である。そして、哲学的に聖書を語るというのも、その路線であるのだろう。
 しかし、自ら「神学やギリシア語に疎い者」だと告白しているが、もちろん何も知らないで書いているわけではないだろう。ただ、自身の信念に基づいて、論じていっているのは間違いないし、神学者の思想と対峙して述べているようなところは確かにない。あくまでも、一種の素人として、自分の解釈を議論の形にもっていった、というふうに捉えればよいのではないかと思う。
 著者の関心は、このたとえの中に、「神の子・キリスト」がどのように関わるか、ということであるようだ。そこで、イエスが語ったこのたとえの中に、どうキリストが関わっているか、もう少し言えば、キリストが描かれているのか、それを読み取ろうとする。
 それは、父親というところが最も怪しいようだが、議論ではそのような方向には行かない。それよりもむしろ、「家族」というあり方のほうに走ってゆく。弟はどうか。兄はどうか。そこにキリストがどう描かれてゆくのか。
 しかし、そもそもイエスが語ったものである。キリストが関わるというのはあるべきことだが、これはルカ伝のたとえである。人間の側に立った、罪と悔い改めの物語であるはずである。従って、通例は、神の愛をこの父親が浮かび上がらせ、神に帰る罪人を弟が、そしてユダヤの宗教者たちの立場を兄が表しているものと受け止めることになっている。しかし普通ならばファリサイ派の人などはけちょんけちょんにやられたり、呪われたりするものだが、このたとえでは、父なる神は、兄を宥めている。私はそれもありだと思う。そしてここには、放蕩したことこそがメインなのではなくて、同じ章の他の二つのたとえにもすべて共通なことが描かれてある通りに、「失われた」ものが見出されるストーリーである。そしてそれが見つかったことを大いに喜ぶ神の姿を浮かび上がらせようとしているものである。「キリスト」という存在は当然救いに関わるとはいえ、キリストをこそたとえで表そうとしているようには思えない。
 それを著者は、キリストによって解釈するという冒険に出た。そこに登場するのは「人間イエス」である。「人間イエス」が、このたとえを語っている。そのときの視点は、「家族共同体の成り立ちの根元である「父なる神」による「神の子・キリスト」」であるのだという。
 しかし、先に挙げたように、著者の関心は、このたとえの解釈にあるのではなく、「復活」の解明にある。その根拠が、「各自の根柢にある「父なる神」の、「神の子・キリスト」における臨在と働き」にあるのだ、というところへ持っていきたかったはずだ。そして「ある人間が、「父なる神」による「神の子・キリスト」を信知して生きる在り方を「生き返った」と表現していること」を明らかにしたかったのだという。
 信仰の言葉が、哲学的な論述の中に混じりつつ展開するので、時に論理というよりも信仰の思いで話が流れてゆくように感じるところがあって、正直私はその論理が理解できなかった。そして何よりも、この著者の文章は読みにくい。まるでカントかヘーゲルのドイツ語直訳を読んでいるかのようで、一文が異常に長いことが度々あり、関係代名詞にまたさらに関係代名詞、そしてその節を括る、というように、複雑怪奇な文構成になっているのが目立った。物事を正確に述べようとする人が、時折この罠に陥るが、関係代名詞で先延ばしにする西欧語とは異なり、日本語でこれをすると、何重にもわたる枠構造ができてしまうことになる。これは実に読みにくい。せっかく伝えたいことがそこにあるのに、読者に伝わらない。それが実の姿ではなかっただろうか。
 もちろん、私の頭脳が緩いことが、一番の原因であることは確かなのだが。




Takapan
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