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『方丈記(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』

ホンとの本

『方丈記(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』
鴨長明
武田友宏編
角川ソフィア文庫
\590+
2007.6.

 日本人の人口に膾炙している書き出し、「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」が、この「方丈記」である。日本の古典の三代随筆に数えられ、鎌倉時代と覚えさせられるので、とにもかくにも名前だけは知られているとも言える。同じ鎌倉時代の随筆の代表「徒然草」は、鎌倉時代の最初と最後というふうに時代が離れているのだが、受験生には同じ「鎌倉時代」で片付けられるのは、中学生ならば仕方がないだろうか。
 角川ソフィア文庫には良い作品がたくさんあるが、このビギナーズ・クラシックスは実に良い。角川にも、日本の古典がきっちりと収められているというものがあるが、古文をそこまで読みこなす体力は、多くの一般人にはない。学究的な人にはよいのだろうが、敬遠されるのがオチだ。そこへいくと、このビギナーズという名のついたものは、日本語訳がふんだんにあり、解説が豊かで、批評めいたものも入っており、これほどお得な企画はないように思う。長い作品は抜粋であるが、殆どの読者にとっては、それで十分であろう。
 だがこの「方丈記」は、原典自体が短いせいもあり、全文が載っている。だから(全)がタイトルに付いているのである。
 編者の意見もだいぶ加わっているが、それも解説のひとつと思えば、ほんとうに分かりやすく書かれてあると感心する。私の心に強く印象づけられたのは、鴨長明の自負めいたいやらしさのようなものが強調されていた最後のほうであったが、教えられたのはまた別のことである。それは、飢饉のことである。
 元々無常観に満ちたものであり、京都の竜巻や火事やら地震やらで、死体が無数に転がっているような悲惨な有様ばかりが描かれているような書物であるが、晩年になってこれらを思い出しているという書き方を鴨長明はしている。ここのところが重要である。その災害の年代については、例えば「安元三年四月廿八日」とか「治承四年卯月のころ」とかいうように、詳しい日付から書き始められている。だが、飢饉の話のときには、こんなふうに書き出している。「また、養和のころとか、久しくなりてたしかにもおぼえず。」
 違いがお分かりだろうか。ずいぶん昔のことだからはっきりとその年をも覚えていないというのだ。先の「安元」や「治承」よりも新しい時代なのに、である。ここには、心理的なものが隠れているのではないか。飢饉のことは客観視できないのである。そして、この日に飢饉がありました、などとは言えず、飢饉は長期にわたり人を苦しめ、長い間しんどい思いを強いられる。期日で計れるものではない。そして何よりも、本当に思い出すのも忌まわしいという苦しい気持ちに苛まれていたという心理を思わせないだろうか。
 真実のところはどうだか知れない。だが、この災害や苦難の中で、飢饉は別格なのだというふうなことを思わせる一言なのであった。
 解説は丁寧である。「かもがわ」については本書で「賀茂川」と記すことにしたのは、「賀茂川」と「鴨川」と分けて表示するようになったのは近代以降のことだ、と説明を加えているところがある。こうした細かなところにも、気づくかもしれない読者への配慮を私は感じる。京都にいたら、「賀茂川」と聞けば、出町柳あたりから北西のほうしか頭に浮かばないからだ。
 コラムも時々あって、古典を知るためにも大いに役立つものがある。長明が七歳で従五位下を授位されたということを取り上げている。貴族の位階が九等に分けられていることなどもここの説明で改めて知る思いだったが、この位には殿上人と地下人との境目があったことがきちんと示されており、そうだった、と懐かしい気持ちで味わったのである。
 最終の章段は最も重要な叙述であるとしながら、そこにある謎の「不請の阿弥陀仏」という語の解釈について、七種の分類があることが紹介されているのには驚いた。研究者にはもちろん常識のものなのであろうが、ビギナーズの前にもこうした関心を惹くようなことを散らしておくのは、心憎いと思う。ますますこうしたことに関心をもつ人が起こされて行くではないか。となると、聖書の解説やキリスト教の説明にも、こうしたテクニックはあってよいはずではないか。あるのだろうが、考えさせられたコラムであった。
 最後の「解説」にも、「徒然草」との比較など興味深い話題が満載である。年表にも、鴨長明の生涯だけでなく、ここに関係する災害についての年表まで付く。入手しやすい奸計資料と、それから史跡案内がまたいい。もちろん地図付きである。鴨長明の隠遁した日野には、アルバイトでしばらく通ったことがあり、懐かしさもあったが、私のように京都にいた、あるいはいる人にとってもまた、心くすぐる頁である。
 というわけで、解説のことばかり書いてきたが、もちろんここにある、災害や疫病に対する人生観のようなものは、いまの日本人にもまだどこか残っているはずのものである。新型コロナウイルスの時に私はこれを開いたが、こうしたときにはやはり、温故知新は本当なのだという思いを強くさせられた。




Takapan
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