本

『放蕩息子の帰郷』

ホンとの本

『放蕩息子の帰郷』
ヘンリ・ナウエン
片岡伸光訳
あめんどう
\2100
2003.5

 父の家に立ち返る物語。これがサブタイトルである。大学教授を全うした後、カトリック司祭となった著者が、ふと一枚の絵と出会うところから、まるで小説のように始まる本である。しかし、そこから聖書の解釈に入っていく。それは、ギリシア語であるとか学問的であるとかいうものではない。いわば、著者の霊が自由に語る。このいわゆる放蕩息子のたとえに出てくるそれぞれの登場人物の側に寄り添い、そこに身を置いて、この物語がどう心に映るか、確かめていくような作業を行っている。
 ルカの福音書にあるこの逸話は、芥川龍之介が短編の絶品だと称えたエピソードが残っているが、たしかに古来この分かりやすさというのは群を抜いていると言える。ルカ書自体、ユダヤ文化を背景にしない外国人のために記されたと言われ、ユダヤ文化を前提としない部分で福音を伝える前提があると理解されているために、私たちにもそのまま分かる部分が多いのであろうか。このような魅力的な譬えが多く載せられている。
 ところが、である。この放蕩息子の物語に、幾人か限られた登場人物しかないにも拘わらず、よくよく考えてみれば、それぞれが不可解な行動をとってばかりいるのである。とにかくまずこの父親の甘さや子を慕う思いが尋常でないし、弟がただ好き勝手なことをしたのは因業であるにしても、戻るときの様や戻ってからの歓待ぶりは異常である。兄の気持ちは当然分かるが、そのスネ具合もなんだか幼くて滑稽である。この譬え自体をイエスが、ファリサイ派や律法学者たちの前で語っているために、兄の姿はあてこすりではないかとも見られている一方、行方不明の羊を探したり一個の銀貨をばたばた探し回る話に連続させて置いているルカの編集からすれば、いなくなった弟を見出す物語であるという理解も当然必要である。父親が神を表しているのは当たり前だとしても、なんだかそのおセンチな溺愛でよいのかどうか、などとも考えたくなるし、他方自分を弟に置けば、神から離れていた自分がこのように愛されて迎えられることに胸がキュンとするのも確かだ。また、クリスチャン生活を続けていれば、自分がいつしか兄のようになっていることにも気づかされる。まことに、不思議な物語であると言える。
 私も、この譬えはこうこうである、と確定的な意見はこれまで持っていなかった。その都度、自分の状況に合った形で、譬えは理解できるものだろうとくらいにしか考えていなかった。だからまた、今この本に出会って、こういう読み方もあるのだ、などと感心させられた、そのようにこの書評めいた独り言を終えるつもりも正直あった。
 いや、確かにそれはそうなのだ。しかし、私は度肝を抜かされた。この本の終わりは、私が出会ったことのないような結末であったし、私に突然全然別の世界からの光がもたらされたという点で、大変な経験をすることになったのだ。
 著者は、「父となる」というタイトルで「結び」を記している。
 これは、自分が神になる、という意味ではない。だが、この視点は私はこれまで持ち合わせていなかった。だから、私はこの視点から、神に呼びかけられたということになる。
 イエス自身、神の子であったが、他方、父とひとつだとも口にしている。この譬え自身の構造はどこか単純であるにしても、本当に、神は不思議な仕方で、メッセージをもたらすものだと改めて思う。




Takapan
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