本

『螢・納屋を焼く・その他の短編』

ホンとの本

『螢・納屋を焼く・その他の短編』
村上春樹
新潮文庫
\362+
1987.9.

 若い村上春樹の息づかいが聞こえてきそうな短編集。長編に疲れたら短篇を、しばらく短編を書いたらまた長編を、といういくらか気紛れな著者のスタンスだが、その短篇が、長編の重要なモチーフになることがあるのがよく分かるし、特に今回は「螢」は、そっくりそのまま「ノルウェイの森」の場面に組み込まれているとも言えるし、既に知っている作品があるときに、愉しめるものが目立った。
 但し、ここにあるのは超常現象的な摩訶不思議なことに揺さぶられることのない作品ばかりだというように見える。奇妙な現象のものも楽しいが、私はじっくり「ひと」の心が見えるものが好きだ。「踊る小人」にしても、夢の中に出てくる小人という設定で、それが乗り移る中で奇妙な結末が生まれているが、解釈によっては、心理内の出来事として片付けることもありうるようなものかもしれない。「納屋を焼く」が心理を揺さぶられる展開が、非合法的な状況の中にあって、どこか後味がよくないが、村上春樹の魅力を醸し出していることには間違いない。これは文学としても強く胸に刻みこまれるものがある。
 私は、「ノルウェイの森」を最初に見ていたが、その中で最も心惹かれた場面が、螢のシーンだった。それが別作品にあるということはその語間もなく知るが、今回その作品を直に辿り、感慨深いものがあった。まさにそのままだったが、やはり螢が直接現れる場面では胸がキュンとくるものがあった。はかない螢が瓶の中で弱っていく。私たちの精神は、このように閉じ込められた中で、不自然なあり方をしているのではないか。何か身につまされるような気がして、切なく悲しくなってくる。この象徴性を適切に伝えるのは難しいことだろう。しかしこの短編の輝きが、長編でも生かせるというところが、ひとつの才覚であり、勢いでもあったのかもしれない。
 また「めくらやなぎと眠る女」は、「海辺のカフカ」を連想されるものもあったが、ここでも「耳」というのがひとつのモチーフになっているところが気になった。村上春樹は、情勢の「耳」の形に非情に関心を強く寄せる。しばしば出てくるので、多く読まれた方はお気づきであろう。「耳」とは何だろうか。「聞く」ところである。その「耳」を「見る」という営みが繰り返されるのが面白い。「聞く」のは外からのものを受けるイメージが強いが、「見る」には、自分の意志で探究しようとするイメージが強い。私は自分の耳を見ることはできないが、他人の耳は見ることができる。しかし、他人の耳に聞こえるものを知ることはできない。作家はそんな理屈はこねないだろうと思うのだが、私にとっては気になるテーマである。耳は、神の声が投げかけられるとき、それを受けることを意味すると思われるからである。
 私の中には、どんなシンボルがあり、それを表せることだろう。螢であったり、納屋であったり、誰もが扱おうとは考えにくいものをどーんと中心に掲げる。これが作家の冒険であり、強みとなるのだろう。それにまた気づかせてくれるひとときは、実に心地よい。




Takapan
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