本

『ホスピス わが人生道場』

ホンとの本

『ホスピス わが人生道場』
下稲葉康之
いのちのことば社
\1200+
2017.2.

 福岡には、全国有数のホスピスがある。当初は、ホスピスという概念自体が理解されず、苦労したようだが、いまでは有名になった、というより、末期医療が理解されてきた。命の質が問われ、かつてのようなスパゲティ状態の患者をよしとしない考えが表に立つようになってきた。最期まで自分らしく生きたい。尊厳ある一人の人間として扱われたい。そうした考え方が、市民権を得るようになったのだ。
 貧民街で倒れた人を助けたマザー・テレサの生き方が世界で認められたことも大きいかもしれない。比較的恵まれた日本という場では、インドとはまた事情が違うかもしれないが、根本的な思想は様々に適用が可能だろう。病気自体に打ち勝つことが無理だと思われたら、延命治療を止めるという選択肢が、出てきたのだ。どうしても医療従事者の意地なり使命感なりで、なんとか命を永らえることだけが目的となってしまっていたかつての現場が、患者当人の意志を尊重する世界へと変貌してきたのである。
 福岡市に隣接する志免町にある、栄光病院。福岡空港からすぐ近い。私の家からも車で簡単に行ける。本書はその栄光病院を始めた医師がこれまでにいくつかの場面で語ってきたこと、綴ってきたことのいくらかのダイジェストになっている。また、新たに書き加えたところもある。
 巻末近くに、下稲葉先生の証しがあって興味深く読ませて戴いた。学生のときにどのように信仰に触れたのか。そして何の故に医師を目指すようになったのかが分かりやすく書かれていた。伝道の思いを医療に活かし、ついにこのような形で実現にするに至った。
 必ずしもスタッフ全員がクリスチャンだというわけではないが、キリスト教に理解がなければここでは働けない。また、キリスト教精神に従うやり方を外れることはできない。そのためか、従事者に笑顔が絶えない。また、清掃担当者に至るまで、病院ですれ違うすべての人が「こんにちは」と挨拶する。それが当たり前になっている。もちろん、患者に対するケアや看護については、説明するまでもないし、患者家族に対しても同様である。というのは、ホスピス病棟において、患者自身の心のケアもさることながら、家族の心理のケアも実に周到に考えられており、相談を受けるなどの備えもきちんとできているからだ。
 どうしても、キリスト者でありつつホスピス病棟に来たような人の話と、キリストが共にいることの希望と慰めが、実例の多くを占めるようにも見えるし、入院の過程でキリストを信じたという話題が並ぶようなことにもなるのだが、決して現場では信仰を強要するようなことはない。もちろんそんな基本的なことは明らかだ。
 その中で、著者は気付かされる。自分はこの患者さんの出会っている事態を体験したことがない、言うなれば、患者さんのほうが、自分よりも人生では先輩なのだ、先輩には教えられることばかりではないか、自分は患者さんに教えられる後輩として対するべきなのだ、と。
 死に対して真正面から向き合う。安易な慰めによって気紛れな援助をしようとするのではない。強い確信を伴いつつ、患者を背負う。中に書いてあったが、時に暴れてやけっぱちになり手に負えない患者にも出会うが、その時に患者を退出させるのは簡単なことであるかもしれないけれども、そうしたらホスピスという使命自体を否定したことなる、だからその患者に話す、これ以上暴れたら病院に置いておくことができない、だが見捨てることはできないから、私が個人的に自分の家にあなたを引き取る、と。これでその患者の心は大きく揺れ動き、著者と固い握手を交わすことになる。忘れがたいエピソードである。
 思えば、誰でもが死へのカウントダウンの中で生きているのだとすれば、より自分らしく生きる権利をもつという自覚は、一人ひとりの生き方が尊重されるということでもあり、すべての人が、そして私もまた、ホスピスの中にいるようなものである。ベッドから殆ど動けないという訳ではないところが違うが、その自由の中で、神によりケアされながら生かされているのに違いない。ホスピスは特別な人のためのものではなく、万人のためにあるものなのだ。この世は、互いにもてなし合う、ホスピスなのだ。キリストの教えた、愛し合う共同体の原理が、そこかしこで、この世のすべての場所で、用いられるべきものであるのだ。
 すべての人にとり、人生はそれを味わい成長する、道場であるのかもしれない。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります