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『本心』

ホンとの本

『本心』
平野啓一郎
文藝春秋
\1800+
2021.5.

 ざっと20年後の世界を描く。これは勇気が要る。過去のことならば調べれば分かる。だが未来である。どうなるか分からない。それで、未来物語とは言っても、所詮疑似物語であるし、少しばかり現在存在しないものを登場させてはみるものの、殆ど現在の風景を描くくらいしかできないものである。従って、現在を舞台として、いま存在していないものを少しばかり登場させることくらいしか、舞台設定はできないであろう。よほど全面的にSFや宇宙ものにするのでなければ。
 本作品でも、リアル・アバターという仕事が中核に居座ることになる。それが何ものであるかは、ぜひ作品をお読み戴きたい。それから、「自由死」という言葉で表される制度があること。これまで「安楽死」と呼ばれ、「尊厳死」と呼ばれるようになったものの延長にあるものらしい。これらとは違って、病気のような、死への不可避の苦痛から逃れるというタイプではなく、純粋に、自由に死んでよい、という制度のようである。自殺あるいは自死というものは消極的で、陰に隠れるものであるが、「自由死」はもっと積極的なものであるように見える。
 しかし、その制度について論議しようとするものではない。最後のほうで論議めいたものも出てくるが、そこが中核なのではないはずだ。
 とはいえ、平野啓一郎の小説には、思想的な問いかけが随所に現れるのが特徴であり、主人公の呟きがいつしか、社会的な問題へのひとつの説であったり、哲学的な議論のひとつの姿を述べていくものであったりする。今回も、あちこちにある。社会的格差の問題は、四半世紀経っても解決はしていないらしい。もちろん、世界情勢を必要もないのに物語に描くことは、冒険すぎるし、この物語でも社会情勢はどうなっているのか、分からない。それよりは、平野啓一郎のテーマの一つである「死」というものについての思いが交錯し、また駆け巡ることが目立つ。
 29歳の石川朔也が主人公であり、その語りで最後まで進む。バーチャル・フィギュア(VF)というものが物語の底流にある。事故で死んだ母親と会いたくて、けっこうな額の支払いを以て、AIで母親を演じるその姿をバーチャルに体験できるようになるところから、それは始まる。そのVFには心というものはないが、情報をあるかぎり入れたAIが母親を演じることができるというものである。これはすでに執筆時にも、会話だけならそこそこ一般家庭にも流布していると言ってよい。それにホログラムが不随したようなものであろうか。
 この母親は、自由死を求めていたのだという。だが、その前に事故死してしまった。母一人で育てられた朔也は、父親のことを知らない。また、高校のときには、ある生徒への学校の処分に抵抗する生徒たちの中に入ったのはいいが、最後まで居残ることになり、結果的に自ら退学をするということになる。何のための、誰のための退学なのかよく分からないのだが、それを物語は、朔也の「優しさ」としか表せないようなもので、もやもやとまとわりつかせながら話を進める。
 リアル・アバターの仕事の中で、いわばカスハラに遭い、職を失う羽目に遭うが、そのときの動画が知られたとき、朔也の「優しさ」が証拠立てられ、有名人となる。そのことがきっかけで、イフィーという、十歳年下の青年実業家と近づいていく。  ほかにも重要な人物が幾人もいて、説明をしようと思えばできるだろうが、そうなると物語を次々と明かしていくことになってしまう。それは私のポリシーが許さない。
 主人公の朔也を見て、読者はどう思うだろうか。ひとの心をよく思いやる基本的な性格がある反面、非常に残酷な心の欠片をも見せることがあるように思うだろうか。あれこれ気にしすぎで、煮え切らない態度に、苛々する人がいるかもしれない。なんでそんなふうに考えるんだよぉ、と文句のひとつも言ってやりたくなることもあるだろう。そんなに共感できるタイプではないのではないか。私のようにひねくれた人間ならば、自分と近いところを見出すこともできるのだが、あまり格好良くもないし、付き合って楽しそうな奴でもない。しかしだからこそ、読者の誰にでも当てはまるところがあるとは言えないだろうか。つまり、自分というものを見せられるような気がするが故に、朔也を見ていて苛つく、という部分がないだろうか、ということである。
 朔也は、自分を産み育てた母親から、聞いておきたかったことがあった。自由死を求めていたとき、母親は「もう十分」という思いを口に出していた。ファウストをちょっと思い起こさせるような響きだが、それは良い意味なのか、悪い意味なのか、問わないうちに、突然逝ってしまった。母の「本心」が知りたい。その思いが、朔也を強くする。なんとか生きてやる、という気持ちは消えない。ずいぶんと死について考える割には、朔也は、死を選ぶような迷いを示すことがない。
 そして、その母親の「本心」を、果たして知ることができるのかどうか。いや、死者の思いは、推測するに過ぎないものである。朔也が探り当てたというふうには思えないだろう。だが、最後には何かが見えてくる。自分のアイデンティティについて、ある意味で絶望的なところに立たされるのだとしても、固定した過去からのみ自分を見るようなことは決してしない。この辺り、平野啓一郎の近年の大きな問いが、幾つもの作品で続いている。過去と未来、そして現在という関係についてである。それと、それに重なってくるものとしての、死と永遠というものについて。
 中程で、《縁起》というアプリが登場する。バーチャルに宇宙史を辿る体験ができる、一種のゲームのようなものであろう。これがやや唐突に現れ、やけに説明が施されているあたりは、作者の思想の登場の仕方としてよくある方法であるが、ここでのみ一度体験したこのアプリは、ちらちらと見え隠れしながら、朔也の思いを支えていく。
 このようにして、いろいろな事件を起こして様々な小道具が登場しながら、何かと思索のテーマを読者に突きつけてゆく。これが作者の特色と言えば特色であろう。もちろん、社会的な問題も随所に織り込まれている。近未来の話になっても、問題となっている事柄は、いま執筆しているこの時代の社会の問題である。
 こうして、時間軸が現実とは違うものに設定されていることによって、物語でいう「過去」が、読者にとっては「現在」であったり、「未来」であったりもすることになる。過去・現在・未来という、時間的に動かせないはずの場面設定が、読者の立つ時をそこに関連させることによって、実は決定することができず、読者にとっては、過去さえ未来になりうるというマジックが、そこにあるように思えてならない。読者たる私が未来を変えることがもしもできるならば、物語の人物たちの過去もまた、変えることができた、というふうに捉えることはできないだろうか。朔也もまた、自分の過去についてショックを受けたとしても、それを超えていく希望があるのだ、という方向に、進んで行くことになるのかもしれない。
 すべての読者が、それぞれの未来を望めることを願いたい。そして、そう簡単に決めることのできない「本心」というものが、あるのかないのかも分からないままに、そして見つけることができないかもしれないままに、大切にしていくとよいだろうと思う。




Takapan
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