本

『「本を読む子」は必ず伸びる!』

ホンとの本

『「本を読む子」は必ず伸びる!』
樋口裕一
すばる舎
\1470
2005.9.

 大学入試のための小論文を講義するのに定評のある著者だという。
 こうした解説を日々生業としている人は、物事の説明が巧い。まわりくどくなく、誰もが聞けば何が大事か自ずと分かるように話す。だからこそ、そうした仕事が成り立つのだろうと思う。
 教科がばらばらに存在するのではなくて、母国語を核としてネットワークのように知識や理解が広がっていくように、私は考えている。著者は、そうした言い方はしないけれど、国語が何より第一だとくり返すことによって、そういう意味のことを伝えようとしているように感じた。
 読書が大切だということは、親もよく分かっているものの、いざ科目の学習にさしかかると、読書に時間を割くようには進言できない状態となっていくのが現状である。ランニングが大切と分かってはいても、どんどんボール扱いの練習ばかりさせたくなってしまうのと似ている。
 おそらく、指導の経験の中で、手を変え品を買え、読書の大切さを訴えてきたその一つの集大成として、この本が著されたのだろうと思う。たたみかけるように、読書の意味が説かれる。同じことしか告げていないのであるが、読み応えがある。
 一つ一つのセクションが短いので、読みやすい。だが逆に、物事を簡略化しすぎてしまうきらいもあることは否めない。本全体の意図を汲んで読み進めていかないと、あまりに信奉してしまうと、そのままに信じてはいけないようなところも、あるように感じる。
 とくに気になったのが、男女の違いをあまりにも決まり切っているかのように説明する傾向である。ジェンダーの差も考慮すべきところを、読み手は、生来違うというふうに読んでしまうであろうところが、ちらほら見られた。
 話す・聞くが主流のように扱われているが、それは、じっくりとした思索を軽視することにもなりかねない。著者が懸念しているように、私も、言葉に対する危機を、人一倍感じている。年々、言語能力、とくに論理的理解については、悲しくなっていく。表現力に至っては、一部の図抜けた子のほかは、一律に程度が下がっていることは歴然である。
 この本では、後半でしばしば、親が読書をする姿を見せることが大切だと述べている。本来、これに尽きる。なんのことはない、読書というものが生活に根付いている家庭では、子どもは生活の一部として、自然と読書していくのである。私は、子どもの教育云々と関係なく、つねに図書館から限度一杯に図書を借りて、我が家にはそのような家族の借りた図書が何十冊単位でごろごろ置かれている。子どもにとっても、本は自分の存在の一部となっている。
 巻末の推薦図書も、まあそんなもんかな、程度に見ておけばいい。これを尊崇する必要はない。全集を押しつけるのは禁物だと著者も記しているとおり、推薦図書を押しつけるのも間違っている。
 さて、この本のタイトルの「必ず伸びる!」であるが、何が「伸びる」のかは、実は私にはよく分からない。成績なのか、点数なのか、人格なのか、はっきりしないが、どうやら「学力」であるような書き方が、「はじめに」からは窺える。はたしてその「学力」とは何ぞや。これがかなり曖昧である。「伸びる」からは、何かムードは伝わるものの、実は主語は明確ではない。私としては、読書の価値づけは、読者一人一人に任せてよいように思った。なにせ、読者自身は、読書をする人のはずだからである。




Takapan
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