本

『本を読まなくても生きていけますか?』

ホンとの本

『本を読まなくても生きていけますか?』
久利生たか子
グラフ社
\999
2004.5

 過激な本だった。
 ――人が本を読まない理由は、「読めない」からだと私は思う。「読めない」は、本を読む力をもっつていないと捉えてほしい。
 こんな挑発から始まる。
 物事は、相手に失礼にならないようにやわらかく発言しなければならない場合もある。しかし、それでは鈍感な相手、つまり他人の心を察することのできない人間に対しては、何も伝わらない。日本語は、相手の心中を察することを前提として成り立っているので、それのできない人間には何も伝わらないのだ。教室でも、やんわりと注意すると、その注意をされる必要のない生徒ばかりがうなずき、必要のある生徒は何も聞いていないのが通常である。そこで、時にはガンと露骨に言ってやらなければならないことがある。そうしないと、伝えるべき相手に聞こえないし、気づかないのだ。
 著者は、敢えてそういう作戦に出たようにも見える。
 本を読まないというのは、何も感じないし考えないような人種だ、と宣言する。それから、彼らが本を読まないことについての弁解を、悉く粉砕してゆく。「困らない」「不便」「興味がない」「時間がない」「お金がない」「読みたい本がない」など、本を読まない理由として挙げられる言葉が、すべて意味をなさず、要するに本を読む能力がないのだという結論へ導いて行く。
 必ずしも、否定的な言明ばかりではない。子どもをどうすれば読書好きにすることができるか、自分の体験から語られている。ただし、具体的な教育方法ではないので、関係者は期待しないように。むしろ、中で触れてある、大人自身が本を読んでいるところを示すということを、もっと拡大して考えていくべきではないか、と私は思う。大人がさりげなく本好きなら、子どもは間違いなく本好きになる。我が家がそれを証明する一例である。
 具体的な方法は、むしろ大人に対してである。まず、「アルコール癖は絶とう」「新聞記事を読もう」など、生活の中で実行できる具体的なプログラムが紹介されている。こちらは大人として役立つであろう。15番目まである中で、これは、と思う方法がきっと見つかるであろう。
 著者は、しきりに、本を買うことを勧めている。それも、文庫を待つよりは単行本を、と言う。書籍の売れ行きの悪さは深刻である。その点を解決せんがために、やたら買うことを随所で強調しているようにさえ見える。意地悪な見方かもしれないが。
 しかし、私は著者の言うことに反論するつもりはない。本を読む側からすれば、読まない人はなんでか、不思議でならないし、読む能力がないのだろうと思うこともしばしばである。そして、本を読むことは楽しいのみならず、自分で情報を整理し、作っていくために必要な精神的営み、あるいはその訓練にもなっていることについて、人一倍主張していきたい側の人間が私である。
 そうして旗を振っている私自身が、この本を図書館で借りて読んでいるのだから、著者はきっと私に怒りをぶつけることだろうな、とも思う。お金が一番の理由だが、実際私程度の読書量でも、買っていれば置き場がなくなるのである。それも弁解かと見られそうだが、著者は唯一、この書籍の保管についてはよいアドバイスをこの本の中ではしてくれていない。どんどん買ったら本を、狭い家の中のどこにどのように置くかについては、自分で本箱を作ろう、とわずか5行に述べているだけなのである。もしも補足して戴けるなら、ここの問題をぜひご指導戴きたい。
 それにもまして、私はこの本を開いて最初に感じたことがある。その思いは、本を閉じた今も、消えることがない。それは、「そもそも本を読まない人、読む能力のない人は、この著書を読むことも、手に取ることさえもないであろう。それなら、この著書は一体誰へ向けて、誰のために書かれているのだろうか」ということである。なんなら、本を読もうと伝道させるためのプログラム、つまりこの著書を読んでくれるであろう読書家へ向けて、本を読まない人のために読むように勧めるための方法として、本があることが宣言されるなら、よかったのではないかと思う。もしもこの本が「本を読まなくても生きていけ」る人へ向けて書かれたのであれば、パラドックスとなってしまうのである。
 もっとも、そこをギャグとして、笑わせるためにここまで本に作り上げたとなれば、これはこれで面白いので拍手するしかないのであるが。




Takapan
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