本

『本を読む本』

ホンとの本

『本を読む本』
M.J.アドラー・C.V.ドーレン
外山滋比古・槇未知子訳
\900+
1997.10.

 キリスト教関係の本であれば、新刊を含め、どういう本が出るか、出回っているか、たいていチェックしているつもりだ。出版社サイトもよく見ているし、Amazonなどでふだん検索にかけているので、他の分野の本はいつも気にかけているわけではない。それでたまに書店で見かけることにより、別分野の面白そうな本に巡り会うという事情が私にはある。
 今回、まさにその中で見つけた本である。そもそもこれは新しい本ではない。だから背表紙ならば見たことがないはずがないのだ。講談社学術文庫が並んでいれば眼を流すくらいのことはするからだ。ただこのたびは、それが平積みされていたので、なんとなく手にとってみたのだが、これがなかなか面白い。いまの自分にフィットする感覚があったということで、読んでみることにした。
 本の読み方の本であるから、何かメタ認識のようでややこしい。果たしてここに書かれてある読み方を、この本自身に向けるとどうなるか、ということが、哲学肌の私にはすぐに気になったのだが、ついにその問題には触れることがなかった。ただし、哲学書の読み方は、著者の中にその口の人がいたので、度々例が挙げられ、その点は私なら近寄りやすいという気がした。
 すでに半世紀以上前の出版物である。邦訳こそ比較的最近だが、元は1940年代なのだという。興味深いことに、そこにも、最近の若者は本を読まなくなった、というようなことが書いてあり、くすっと笑うしかなかった。テレビなどの発達で、活字を見ている暇がないといった指摘なのだが、これは現在ではもっと深刻な事態になっている。本を読むことは、刺激が与えられる電子ツールとは違い、自分から行間を読むように挑まなければ面白くない。想像力がさらに必要であるし、ひとつのことを見つけるためにも忍耐が必要である。思えば、よくぞこうした読書環境で論文を昔は執筆していたものだと思う。ひとつの資料を得るために、図書館に出かけ、閉架書庫で探し、頁をめくって、あったと喜びの叫びを挙げる営みが、1分と経たずにできるというすごい時代となったのだ。当然調べ方もまとめ方も違って来よう。
 では本の読み方について、この時代差はどう影響するだろうか。それが、そんなに違和感なく近づけるので、我ながら驚いた。
 そもそも読書の意味は、というあたりから始まり、読書にはレベルがあるというところが、本書の中心である。中には、早読みをして全体像を掴むという方法もある。しかしまた、著者と対話をするために、さらに言えば対決をするために読み込んでいく段階があるという。もちろんこれがあらゆるジャンルに有効であるとは思えない。やはり哲学的なものや、経済などの専門書が絡んでくるのであるが、それはまあ細かく様々なケースを想定して、読書というものの醍醐味を、マニアックに攻めてくる。読書好きにはたまらない叙述もあるはずだ。著者からひたすら聞く段階もあれば、著者に対抗する段階もあるという。それなりに読み込んできた経験がある私には、この本が言おうとしていることは、それなりに分かる。だから面白いのだ。
 もちろん、文芸的な本についてもスペースを割いているが、それは正邪を決めるような営みではないことから、やや趣の異なる読み方となるであろうし、実はそこは殆どスルーするかのようにさらりとまとめられている。
 それにしても、本とは不思議な存在である。どう不思議であるのかは、つき合ってみた人のみが「あるある」と笑みを浮かべて肯くような、そんな感覚である。共有感覚がそのようなものである限り、これはやはりオタクであるのかもしれない。が、人間の想像力を必要とする、知的に高度なレベルの営みであることは間違いないから(それは読書でないオタクが知的でないなどという意味では毛頭ない)、たとえだいぶ以前の論評的なものであろうとも、今の私たちが見て何ら妙なことはないし、その意味ではどこか普遍的なテーマであるのだということが分かり、感動する。
 ホンとの本はつまらないシャレであるが、本を読む本というのは、深い味わいのある、そして経験と実績のあるメンバーにより、そういうメンバーに対して宛てられた、愛情のこもった手紙であるような気もする。




Takapan
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