本

『書物と映像の未来』

ホンとの本

『書物と映像の未来』
長尾真・遠藤薫・吉見俊哉編
岩波書店
\1575
2010.11

 サブタイトルとして、「グーグル化する世界の知の課題とは」とある。
 発端は、どうやらグーグル社が企てた、著作物のネット提供という計画にあったようだ。著作権が蔑ろにされかねない行為であるし、他方著作権がはっきりしないものはどうすればよいのかという、現状への問題提起ともなった。
 しかし、この新たな企ては、そもそも知はかつての書物にあった形態で成立しているのではないという現実の事態を改めて認識させたし、知の構築のためにはあらゆる情報が検索されていくべきだという、ネット利用者の常識になりつつあるような考え方が次第に支配的になりつつある様子を明確にしたともいえる。
 将来、この傾向はどう落ち着いていくのか。従来の常識では処理できない事態になっているのだ。また、その場合これまでの活字情報という次元には囚われず、いっそう問題視されるべきは、映像情報である場合が発生するともいう。映画、あるいは放送映像などだ。果たして映画は、たとえ百年あまりの歴史の中でではあるとしても、どう遺していけばよいのか。これまでの保存はどうなっていたのかも曖昧である故に、今後の保存方法も定めておくべき時期になっていると言えるだろう。
 現実に、さしあたり始まっているプロジェクトもあるが、世界的にこういう方法でやり遂げるのだという定まった方法があるとはあいにく言えない現状である。こうした時代にあって、方向性を定めるためにも、従来の方法での問題点を将来の中に検討していくことが求められるし、もはや単純に、電子書籍は適切かどうかなどといった呑気な話では済まされない事態に私たちは陥ってしまっていることを自覚しなければならない。
 法的な側面や、情報技術的な見方、出版社の立場や、映像管理や制作の現場から、様々な声を集めた本である。そこには、それぞれの領域における問題点が的確に集められていることだろう。この本は一つの重要な資料として、真剣にそこに挙げられた問題を解決すべく、関係者が一つの方向へ動き始めるようにしなければならないといえるだろう。
 ただ、読者としての戸惑いも正直言って、ある。これだけのエキスパートが問題点を挙げていくことは尊いのであるが、この一冊の本の読者として、問題点をうまく捉えきれないという点である。つまり、たとえば一人の著者が本を著すとなると、読者の思考を意識して、導入なり展開なりまとめなりを、道標と共に置いていってくれるであろう。しかしこの本は各方面からの声を集めたものである。しかし読者は基本的に初めから順に読んでいく。そのとき、同じことを他の筆者がくどくど繰り返す場合もあれば、まだ解決できていない問題を既知のようにもう触れている筆者がいることがあるかもしれない。解決の方向が見えてきたと書いた筆者がいるかと思えば、その次の筆者が、また同じ問題の深い森の中に迷っていると記す場合もある。読者が、ひとつひとつの論文を別々に全く違う本に触れるのであるかのように見なして読んでいくならば、そういうことはないのかもしれないが、一般に頁をめくりつつ読者は最初から順に見ていく。そこで、混乱をきたすという具合なのである。
 ただいろいろな立場からの懸念や現場報告であるとして、本を見るのであるならば、雑多に集められてもそれはそれでよいのだろうか、どの論文もが、過去と現状と未来とを比較検討して伸べていくとなれば、読者はスタンスを定めにくい。もっとこの本を一つの作品として、統一的な流れの中に置くことはできなかっただろうか。読者が初めから順に読んだときに、ある流れに乗り、方向性が見えてくるような、そんな構成を、もちろん監修者は意識していることだろうと思う。ただ、それが伝わらなかった。
 もしかすると、グーグル化する未来の展望は、そのように、あらゆる情報が断片的に多数現れてくるばかりで、統一的な知の理解が欠如していく傾向にあるというものになるのではないだろうか。だとすれば、この本が皮肉なことに、その傾向を呈してしまっているということになるのかもしれない。まさに、皮肉だが。




Takapan
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