本

『羊をめぐる冒険(上・下)』

ホンとの本

『羊をめぐる冒険(上・下)』
村上春樹
講談社文庫
\400+(上) \448(下)
1985.10.

 いわゆる「鼠三部作」を締め括る。デビュー期の世界をひとまず完結させる作品である。村上春樹自身、最初の2つは後々よろしくないと考えていたらしいと聞くが、だとするとこの作品は悪くないと見なしたことになる。事実、これまでの2つとは質的に何かが違う。何かが違うのだが、読後感が必ずしもよくない。確かに『1973年のピンボール』も最後は判然としないものがあったが、何かしら希望があった。ただそのときに、鼠には希望がないように見受けられた気がしたが、その後の世界を描く本作は、何かしら暗いものが最後に残った。果たして最初から仕組んでいたのかどうか、私は知らないが、気分による成り行きだけではここまではまとめられないだろうから、伏線を敷きながら、綿密に何かを漂わせつつ最後まで導いてきたに違いない。その引きつける魅力は、確かに前二作とは異なるものがあった。
 どだい、何故羊であるのか、それは見え隠れしないでもないが、後半での奇妙な羊の登場に至るまでは、微かな小道具であり続けた。もちろん、羊にこだわるある依頼主というか、脅しによる誘いかけなるものが、羊への以上な執着を示すのも変ではあるのだが、殆どファンタジーに突入するような展開が北海道のシーンを覆う。
 小説なのだから、ネタバレはいけない。そして熱心なハルキストの眼差しに触れたら非難され蹴飛ばされそうなのが怖いのだが、他方ハルキストたちの間でも、かなりの思い込みに傾く解釈というものが踊っているようでもある。
 関係した女の死は先の作品でも同じだが、それを悲壮感をもたないままに積み残した荷物のように、物語の随所でローブローのように効いてくる。作者自らイラストで示す羊男もユニークだが、その羊がどういう存在であるのか、私たちの側の理解や常識を覆す形でがんがんぶつけられてくる。いったい羊とは何か、読者は真剣に聞こうとしなければ先が読めない。そのうち私たちの側にもいくらかのイメージが湧いてくるが、私が思うに、私たちがそのように懐くイメージは、本質を突いていないであろう。まさにその羊の故に、死があり、あらゆる死にも涙ひとつ見せず淡々と渡り歩いてきた僕が、最後に長時間泣き続けなければならなかったのである。
 確かに、厚みがありストーリー性が豊かである。イメージだけで分からせようとなどしない、描写ひとつとっても十分なリアリティがある。リアリティがあるからこそ、ファンタジー的な展開が生きてくるのである。村上春樹自身、北海道で取材を重ねた上での作品だというから、このリアリティが、作品に十分な価値を与えているのは間違いない。
 それにしても、ここで鼠を描く作品が幕を閉じることになるのだが、果たしてこの友人の鼠は、ここまで付き合ってきたなにげない友だちであっただけでなく、生死を共にするかのような友人となり、もしかすると鼠とは僕の中の何ものかではないかとすら感じさせるほど、錯綜した構造を垣間見ることもできるのであるが、私は何かオカルト的なものとして読みたくはないし、神秘的な解決で説明したような気持ちにはなりたくないと思う。鼠は、自分の外にもいて対話できるし、自分の中にして逃げ回ることも可能だろう。姿を決めておらず、相変わらずちょろちょろしている者である。飄々としたような僕は、必ずしも逃げているようには思えないから、最後にきっちりと向き合って対話をしなければならなかったのだ。それがたとえ闇の中であったとしても。
 運転手のクリスチャンも、個人的に惹かれた。決してステレオタイプにそれを描かず、しかし根底にどっしりと信仰を構えることの可能な人間像として、僕を問題の地に運ぶ役割を果たしている。この神の使いがいたからこそ、僕は守られたのかもしれない、と密かに考え得るが、普通そんなところには誰も注目しないのだろう。
 女とは、交わって、また助けられても、どうにもひとつになることができない。そこにも、孤独を抱える僕が示され、だからこその羊というふうになるのかもしれない。何がこうだと表すのは難しいが、あらゆる場面で、キャラクターが、何かを伝えようとそこにいるようにも思える、そこがやはり楽しみの一つとなりうるのかもしれない。この作品が野間文芸新人賞をもらったというのも、当然であるだろうと思う。後の時代にも声を響かせることのできる、魅力的な作品であると言えるだろう。




Takapan
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