本

『ヒトはなぜ死ぬ運命にあるのか』

ホンとの本

『ヒトはなぜ死ぬ運命にあるのか』
更科功
新潮選書
\1500+
2022.5.

 タイトルの「ヒト」からして、これは生物学の領域なのだろうと思わせる。実際、そうだ。人生論などではなく、ゴリゴリの生物学の理論だ。
 サブタイトルに「生物の死 4つの仮説」と付いているのは、まさに本書の骨格を示したものであり、読者に対して親切であると思う。その4つであるが、生物が何故死ぬか、については、20世紀までに、300以上の仮説が提唱されてきたらしい。但し、それらは一定のグループ分けができるそうだ。本書は、その中から4つのグループについて、説明をしようというものである。
 自然淘汰による死・主の保存説・進化論的寿命説・生命活動速度論、この4つであるといい、章立ても、これらを説き明かすために組み立てられている。
 それぞれ、分かりやすい実例を挙げて、読者に心の準備をさせる。上手な導入である。最初の自然淘汰の話だと、信号に拘わらず歩き続ける老人のサバイバルという思考実験により、確率的に生き延びる可能性を、簡単な計算で読者に意識させる。と、安心していると、あっという間に、生物学用語と理論が飛び交うようになり、私のような読者はもはやついて行けなくなってしまう。と、またテレビが爆発する話や、雪山で遭難した二人の話など、読者が引き離れないように、叙述に工夫をもたらす。とにかく、この自然淘汰による死は、生物に標準装備させていることになるのだそうだ。
 それに続く、生物は元来死なないというのが基本なのだ、ということをいろいろと説明する部分は、概念的にはついて行けないまでも、いつか聞いた話をふと思い出した。生命は、遺伝子という形であってよいと思うが、器を換えてずっと生き続けるのであり、その器というのが、私たち個体である、というわけだ。器はガタが来るから取り替えよう、しかし中身は保たれ続けるのだ。
 種の保存説では、いきなりカマキリのメスがオスを食う話から始まる。話としてはよく言われるのだが、その過程の詳細をねちねちとこのように語られると、グサリとくる。交尾するメスがオスの頭を食べても、オスはなお交尾活動を続けるのだというのだ。なんともはや……。他方、子を殺す親というのが、なにも人間に限らず、動物にもわりとあることなのだというのも、ショックである。メスを奪うオスが、メスの子を傷つけ放置させるに任せ、そのメスと結びつくとなると、これは人間社会の事件なのか、とも思わされる。卵を守るオスがいるのがその前提だが、その卵を殺して、別のメスがオスを奪うことになる、などと聞くと、これも震え上がりそうな事件なのではないか。こうしたことから、次の世代のために死ぬというようなことはないのだ、と説明してくるのだが、もうあのおぞましい三面記事のような事件に、私は生物学の筋道を見失ってしまっていた。
 ミツバチの中に、裏切り者がいるなどという話に感心している間に、単細胞生物と多細胞生物の説明がいつの間にか始まっていた。生きていくという意味においては、単細胞生物のほうが有利であるのだそうだ。だんだん複雑な生殖過程を築くことは、様々なリスクを増大指せるばかりだという。だが、生殖能力を失った人間も、その後も一定の価値がある存在であることを考えるなど、単純に、細胞と個体の構造だけで、すべてが決まるものではないのだ、という話にもなっていく。生物は、体の大きさや、分子の酸化により、寿命が影響を受けるなど、様々な観点が現れた後、関心の的である人類の長寿について、最後に語られることになる。
 そう、私たちは複雑な多細胞生物のひとつである。それは脳を高度に発達させることで、これほどの文化文明を築いてきた。だが、脳細胞は絶えず入れ替る代謝をそれに求めることはできない。これは永続性を失う。単純な細胞ならば、永続性があるようにできるが、複雑な多細胞ならば、無理なのである。そのとき、意識は死ななければならない。ただし、生殖細胞という単細胞に、永遠を委ねることなら、できた、と考えるのである。
 難しい話で、よく理解していないとしか言えないが、実例はとても楽しめた。というより、怖くて、忘れられなくなってしまった。オスとは、カマキリのようなものなのかもしれない、などと。




Takapan
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