本

『人の子イエス』

ホンとの本

『人の子イエス』
カリール・ジブラーン
小森健太朗訳
みすず書房
\2940
2011.5.

 なんとも不思議な本である。そもそも表紙の渋い横顔の男の絵は、著者自ら描いた絵であるという。なんとも言えない雰囲気を醸し出している。
 そして中身。イエスについての79の短い証言からできている。中には同一人物も複数回登場することがあるので、人数としては72人なのだそうだ。ともかくこれは一種の文学であり、たとえば小説だと理解してみてよいと思うのだが、よけいな説明や展開は何一つない。言うなれば、戦争の記憶を多くの証言者から集めて、一人分は短くともたくさんの人の声を掲載した、というような具合である。
 つまりイエスについての、「架空の」証言を多数集めているということだ。それは、聖書に登場する人物が多い。弟子だの、あるいは福音書の随所で顔を出す、名前のある人、またない人、様々である。直接登場しなくても、あの福音書の場面があるからには必ずそのどこかにこういう人がいただろう、と思われるような人物も顔を出している。福音書は、もちろん弟子の視点が強いとは思われるが、それにしても、イエスの言動がひたすら記録されており、やはりイエスから見たものがどうであるかにカメラは寄り添い続けるようなものであろう。だがこのフィクションは違う。ひたすらイエスの外の眼差しから捉えたイエスが描かれている。
 これは、作者の想像力のなせるわざである。ひたすら作者の想像の賜物だといえ、それは聖書の通りである以上に、それを越えてイエスがそのときこのように言った云々と会話までが紹介される。生き生きとその現場の息吹を伝える。
 だが、もちろんこれはフィクションである。聖書を学ぼうと思うときに、間違ってもこの本を開いてはならない。聖書を別の視点から捉えたつもりで描いている、空想物語に過ぎない。しかし、それを弁えれば、面白いと思われることもあるし、ちょっと唸ってしまうようなところもある。
 ――彼の十字架刑は、せいぜい一刻ほどのことだった。俺は死ぬまでずっと、この磔刑に苦しめられ続けるのだ。
 お分かりだろうか。これは、バラバの証言の末尾である。ここには、人間の真理が、あるいは心理がある。文学的に、何かを感じさせるものは、このように随所にある。
 著者は、国はレバノン、アラブの環境に生まれたクリスチャンで、なんでもえらくニーチェに傾倒したのだとか。しかし聖書には親しんでおり、聖書をバックボーンにした文化理解という点では、半端でないものをもっている。そうでなければこれだけの世界を描くことなど不可能である。アメリカで最も有名なアラブ系の詩人なのだそうだ。
 わざわざ「人の子」という言葉が添えられている。これは原題の通りである。このために、証言についても、弟子たちの証言とはずいぶん異なる。イエスの奇蹟を大きく取り上げてメシアのしるしであるように叫ぶ弟子たちは、聖霊降臨以後、霊的に造りかえられてからの見解だと言える。だが、この人の子であるイエスへの証言は、その都度その時における証言が多く、また演出上後世のものということもあるのだが、しかし弟子たちの視点を交えているわけではない。奇蹟が面に出ることはない。いかにも伝聞推定のようにしか語られない。中には、イエスを恨む声もある。情に満ち人間の立場としては、イエスはとんでもないことを自分にとってしてくれたものだ、と悲しみまた憎む立場の人もいるわけだ。この辺りの想像力も、文学者のそれとして価値があると言えるだろう。
 繰り返すが、これはフィクションである。文学的な輝きはあるかもしれないが、霊的なそれはない。逆にまた、教会なり信徒なりが、霊的な輝きを以て世を照らすのでなければならない、とも言えるだろう。
 この証言を読んで楽しむためには、十分な聖書理解と聖書の知識とを必要とする。その意味で、日本語に訳して出版したみすず書房の英断には頭が下がる。そもそもそういうスピリットでないならば、みすず書房とは呼べないかもしれないのだけれども。




Takapan
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